高3修養会報告礼拝が行われました
高3修養会が8月24(月)と25日(火)に行われました。9月28日(月)に行われた2名の生徒による報告礼拝をご紹介します。
今回の修養会のテーマ〝プリズム〟光を放つプリズムは優劣なく美しく、面が増えれば輝きを増す。JGに入った時の私達が立方体だとしたら、JGでの6年間で何回削られ、いくつの面が生み出されただろうか。
この修養会に参加する上で、「考える」こと自体を再考した。私たちは社会について、他者について考えているようで実は、上澄みばかりを掬っているのではないか、考える行為に満足しているのではないかと。発題で「思考停止は奴隷状態」という言葉があったが、当たり前を当たり前とせず「考える」前提から「考える」ことが必要だと思う。世の中は多様性を謳うけれど、マイノリティ・マジョリティと区別すること自体も問題ではないか。私たちは1人1人何かしらマイノリティの要素を持っているはずなのに。環境に合わせマイノリティはマジョリティになり、マジョリティはマイノリティになるものだ。その区別をなくすには性別国籍より人間として目の前の1人と向き合うことが不可欠だろう。そしてマイノリティであることがマイナスだという意識も払拭しなければならない。詩人吉原幸子を知っているだろうか。とびきりクールで美しい詩人。彼女は結婚歴こそあるが同性愛者で、女性の表現活動を支援した人だった。彼女の生きた時代に女性は今以上にマイノリティであったけれど、彼女の言葉は孤独にも美しく世を斬り続けた。女性という武器、マイノリティが素晴らしい武器になることもあるのだ。
また「当事者意識を持とう」と言うけれど自分が当事者でない時に当事者になることは出来ない。慮ることが押し付けにならないようにどう寄り添うべきなのか。誰かの心の堰が外れ言葉が溢れ出した時、その言葉を受け止め言ってくれた事実にありがとうと言えたらと思う。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」はこんな意味ではなかったか。
全体会で議論した「立ち返る場所」は、自分の中にある人もいれば、神様や趣味と人それぞれだった。多くに共通して言えるのは、困難に遭った時に救いとなる核である点だ。中でも「核は時とともに変化するものだ」という言葉が心に残っている。核は確固たるものだと信じて疑わなかった事に気づかされた。誰かにとって新しい光になればと思い、自分の核について話してみようと思う。自分にとって美しいと思える生き方をするという信念が私の核だ。長い間0か100かで生きてきた私にとって、50という選択肢はなかった。しかしある時、國分功一郎氏が著書『暇と退屈の倫理学』の中でウィリアム・モリスの言葉を発展させた次の言葉に出会った。
「人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られなければならない。」
この言葉に出会った時、50という選択肢がはじめて自分に与えられた。先程例に出した吉原幸子も「パンの話」という詩を書いている。美しく生きたいと願い、力を抜いて生きるようになると、見えない物、日常の中の小さな美を見つけられるようになった。
コロナ禍、特に緊急事態宣言下で私たちは何を求めただろうか。連日の報道ではマスクを買いに走る人、虚偽の情報に踊らされお米を買いに走る人、色んな姿が映し出されていた。飢えの中にいる時、刺激的な情報はあまりに魅力的だ。けれど理性を忘れ情報に舞い踊る人々の姿は美しい人間像とはあまりにかけ離れていた。もちろん棚を満たすことも大切だが、棚を満たすように心を満たしてはどうだろう。元来枯渇は苦しいものだ。けれど枯渇は時に恵まれている時には見えないものを可視化する。だからこそ飢えの時にこそ、心を豊かに潤すものに手を伸ばせる人間でありたいと思うのだ。
JGでの6年間、そして女子学院の出口修養会を通してプリズムは十分に削られただろう。この狭くも暖かい環境から飛び出す上で、ここで得た光を失う事なく、新たな光と重ね育てて行けたらと願う。最後に、修養会という場で沢山の光が交差する瞬間に立ち会えた事に感謝したい。
修養会の幕開け、発題者の方がフランクルの生きる意味のコペルニクス的転回を引用していたが、私もちょうど最近生きる意味について考えていた。私はかなり血迷うことの多い中高生活を送ってきた。なんで生きているんだろう、と答えなど出るはずはないのにずっと考えていた。世の中のことを知れば知るほど納得の行かないことばかりで、大人になって世界を知るほどそれに絶望させられることが増えるのだろう、と漠然と考えていた。
その中でたどり着いた個人的な結論だが、人間が生きる意味を見出せるのは、人間が楽園を追放されたからではないかと思う。非常に逆説的だが、この世がエデンの園で、常に満たされ、何の課題も社会問題もなく、悩みもなかったら、我々に生きる意味はあるだろうか、或いは見つけられるだろうか。聖書の解釈とかそんな難しい話は私にはわからないが、この世界が完全でないと言うことは一つの大きな希望だと思う。無論その不完全さ故に、思い通りにならないこと、自分の力ではどうしようもないことは多く、悲しいニュースもあまりに多い。そのような時、私は、自分の無力さを痛感しながらも、それによってむしろ自分にも何か生きる意味を見出せるような気がしてくる。
全体会の三つ目のテーマ、『私だけではない社会』について、最近具体的実感を伴って体験したことがある。 数ヶ月前、私の小麦アレルギーが発覚した。別に食べても死にはしないが、食生活はかなり変化した。しかし私は見える世界が「減った」ではなく、「変わった」と感じた。今まで見えていた世界が見えなくなった分、新たな発見や気づきを得て、見えていなかったものが見えるようになったからだ。小麦全面禁止生活一日目、初めてコンビニに入った時、今までとは少し違った世界に思えて、現代文で高二の時に習った日高敏隆の『生物の作る環境』という文章を思い出した。我々には部屋の椅子や机や本棚はそれぞれ別の意味を持って存在しているけれど、例えばハエにとってはそんなものの違いはなんの意味も持たない。ハエには部屋の光や食べ物が意味あるものとして知覚されており、同じ世界にいるようでいて見ているものが全く違う。今の私にとっても、コンビニのパンコーナーやスパゲッティのコーナーはなんの意味も持たず興味も湧かない。コンビニをぐるぐるしながら、教科書の印象的な挿絵が脳裏に浮かんだ。ハエにとっての生きる環境が人間のそれと全く異なるのとちょうど同じように、同じ物理的世界に生きている、同じ生物としての人間であっても、同じ教室にいる人間同士であっても、見ている世界や世界に対する分節の与え方は違うのではないだろうか。私の場合それが見える世界に対する違いとして実感されたが、勿論見えない世界の見え方についても同じことが言えると思う。それを多様性と呼ぶのなら、そうなのかも知れない。
また全体会では、多様性を受け入れることについての議論があったが、私は、受け入れるってそんなに簡単なことなのだろうか?と疑問に思った。
最近たまたまハラールと給食についての記事を読んだ。当然日本では学校給食にハラール料理は出ない。公立の学校では政教分離の観点から見ても特定宗教の慣習のために費用をかけるべきでは無いというのは非常に筋の通った論理だ。しかし周りの友達がどれだけあなたの事を認める、受け入れる、と言ってくれたところでそこにその子のための給食はいつもないのだ。自分の存在を肯定してくれる他者の存在は重要だが、スーパーやコンビニに行った時、自分の食べられる物が売っていなかったら、この社会に認知されていない、と感じるのも自然ではないだろうか。人を「受け入れる」という言葉はとても受動的な響きを持つが、それは時に積極的なアクション、アプローチを必要とするのだと思う。
今の話はあくまで私の想像に過ぎないし、だからハラールの給食を準備すべき、とは別に思わない。現実問題越えるのが難しい壁は沢山ある。ただ、「受け入れる」とは、「あなたはそこにいて、私はここにいる。私はあなたを侵害しない。私はあなたの存在を否定しない。」という単純なものではないと思う。
とは言うものの、私自身はものすごく人に受け入れてもらっていると感じる。私のかなりお気に入りの言葉に、「奪い合うと足らないけれど、分け合うと余っちゃうんだなぁ、 みつを」がある。人を受け入れることは簡単ではないし妥協しなければならないこともある。その時私は、「分け合うと余っちゃう」精神を大切にしたい。もちろん親切の押し付けは相手を真に受け入れようとしているとは言えない。大事なのは、あなたが本当に欲しいものが何なのかまだ私にはきっとわからない、だけど私はあなたと何かを分け合いたい、という姿勢だ。その方法は常に探り続けるしかない。人に分けてもらった分以上に誰かと何かを分け合えるような、めちゃめちゃに余らせられるような人間になりたいと思う。