文化祭の礼拝を紹介します

10月8日(土)と10日(月)に、文化祭が行われました。当日の朝の高校二年生の礼拝を紹介します。

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章58節

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

 

文化祭と聞いて思い出されるのは、私が中一だったちょうど四年前、当時の高二の先輩方が部活人生最後のコンサートを終えた後泣きながら抱き合っていた姿だ。その時の先輩方の気持ちを察するのは当時の私には難しかったが、満足のいく演奏を作りあげられたという達成感に満ちたその背中を見てかっこいいと感じたこと、そして自分もいつかあんな風に泣くことができる日がくるのだろうかと考えたことは今でも鮮明に覚えている。

あれからあっという間に時は経って私は幹部学年になり、後輩の演奏指導をする立場になっていた。私の所属するマンドリン・ギター班では幹部学年が一人一つ役割を分担するのだが、数ある役職の中で私が指導役を選んだのは何より、中一で見たあのコンサートと、その最前線に立っていた先輩方への憧れがあったからだった。私も自分達が出る最後の公演を素敵なものにつくりあげたいと、意気ごんで幹部学年をスタートした。

しかしいざ幹部生活が始まってみると憧れだけではのりこえられない壁があった。部活が制限をうけていたことも悔しく感じなかった訳ではないが、私はそれ以上に自分の経験不足への不安が深刻だった。感染症拡大が始まって二年間、部活の活動時間もコンサートの舞台上人数も半減してしまい、そしてその状態で部活人生の実に半分以上をすごした私達は幹部学年に突入してしまった。コロナ前の幹部と比べて大人数で合奏したり他学年とコミュニケーションをとったりする機会が少なかった中で、歴代の先輩方と同じように後輩を引っぱることはできるのかと途方に暮れる思いだった。加えて私達の代からコロナ前と同じ曲数を演奏すると決めたこともあり、私は益々責任を感じるようになった。練習時間は半減したままであったのでそれに対する焦りが募り、そんな余裕のない状態で後輩の指導をしていることに自己嫌悪を覚えたり、あの先輩ならもっと的確なアドバイスができただろうなどと考えて落ち込んだりと、理想と現実のギャップに直面して自分の置かれた立場の意味を見失ってしまった時期もあった。

そんな状況でも何とか乗りこえて来られたのは、練習を見る立場として一緒に頑張ってきた同級生達の存在が大きかったと思う。同じ演奏を聞いていても、人によってそれに対する感じ方や気付く改善点は異なる。そのことが回を重ねるうちに分かるようになって、自分一人では力不足だったとしても、みんなの知恵を少しずつ出しあえばより良い演奏を生むことはできる、個々ができることを精一杯やって互いに補いあうことがコンサートを創るということなのだと、それからは気持ちがとても楽になった。また、今日の聖書箇所でもあるコリントの信徒への手紙Ⅰ 15章58節に出会って、神様もまた、不足のある私達が奮闘する姿をそのまま見守って下さるのだと、自分が肯定されたように感じることができた。

私達はどうしても経験不足でつたないところもあったかもしれないけれど、奮闘したこの一年があったことは、今後下級生達の部活がコロナ前と同じ完全体に向けて歩みながら続いていく上で、手助けとなるだろう。そうした意味では、制限のある部活が徐々に戻ろうとする過渡期において悩んだりもがいたりしたこと自体が、神様から私達の学年に与えられた使命であり、聖書にあった「無駄にならない」ということだったのかもしれない、と今は感じている。

今日までそれぞれの使命を背負って必死に励んできた一人一人の思いが結実し、文化祭が思い出に残るものになることを願っている。

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