文化祭準備
◇文化祭準備◇
女子学院においての大イベントの1つであるマグノリア祭がいよいよ間近に迫ってきました!!多くのクラブや個人参加団体がたった2日間のこの日のために、半年・1年がかりで準備をしています。
自由な校風で知られている女子学院では、もちろん文化祭も生徒主体で作り上げられます。「自由」というと何でも好き勝手にやってよいように思われがちですが、それは全くの逆で自由だからこそ自分の行動・考えにいかに責任を持つかを深く考えさせられました。先生の助言や仲間の支えによって試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ完成に近づいてきました。私たちJG生は自信を持ってマグノリア祭当日を迎えます。
この機会にありのままの女子学院を受験生や保護者の皆様に伝えたいと思っています。
(女子学院文化祭実行委員長)
文化祭準備中の生徒達
◇修養会◇
高3修養会の報告
9月の高校講堂礼拝より
高3の夏だからこそ、東京を離れ受験勉強を忘れ、息詰まった生活から抜け出して、2泊3日話し合いをするものが修養会、多くの人がこう思っているのではないでしょうか。例年の先輩の話では、高3の夏だから、という言葉が妙に印象的で、私もそう思う一人でした。けれども今回、委員として準備に携わり、実際参加してみて初めて、高3の夏だからという言葉の真意を理解する事ができました。受験勉強を忘れる必要のある時期だから、それだけではありません。高3というのは、いわば、この女子学院生活の総まとめをすべき時なのです。中2の御殿場教室を女子学院生活の「入り口」とするなら、高3の修養会は「出口」だ、とおっしゃった先生がいらっしゃるように、高3の夏だからこそ、女子学院生活を振り返って「出口」を出る自分を確認し、新しい世界の「入り口」に立つ準備をするのです。
では、その総まとめとして、私達高3は実際どんなことをしてきたのか、お話ししたいと思います。「今日まで、そして明日から~『私』を生きる私~」というテーマに基づいて、私達は自分が考えていることを話したり、人の考えを聞いたりして”私”という普段は見つめにくい存在を見つめてきました。
このテーマに沿って講師の横野朝彦先生(番町教会牧師)には、2回講演していただきました。その中で先生は、人間は欠けていて当たり前で、弱さや欠けている部分を持っていることはいけないことではなく、弱さや欠けている部分を自覚することは素晴らしい、また、自分を知るには自分の姿を客観的に見ることが必要であり、そして、そのためには自分を写す鏡である他者という存在に出会うことが必要である、とおっしゃいました。人間は他者と自分を比較して、劣等感を抱いたり、あるいは優越感に浸ったりしてしまいがちですが、等身大の自分を写してくれる他者という鏡に出会えたら、人間はありのままの自分自身を受け止められるようになるということです。
その2回の講演のあとに、グループディスカッションを行い、各グループでの話題を修養会に参加した全ての人が共有するために、最終日には、2時間半に渡って全体会を開きました。全体会では3つに焦点を絞り話を進めました。他者を意識してコンプレックスを感じたり、一緒にいる人に合わせて自分を作ったりする。人間は、多少なりともこのような経験をしている、その時の自分は本当の自分なのか、という「本当の自分と他者との関係」が1つ目の論点でした。本当の自分という概念は、人それぞれで、誰にも知られていない自分が本当の自分、人に合わせて自分を隠すのも隠さないのも本当の自分、本当の自分という概念は成立し得ない、まだ本当の自分を自分自身もよくわからない、など様々な考えを聞くことができました。2つ目、「環境の変化によってこれからの自分はどうなるか」については、先生方の経験談をうかがって、いかに周りの環境が自分に影響しているのかについて考えました。環境によって、これから先も私達は幾度となく変化するもので、それはお話を伺った先生方にも経験がおありになったそうですが、それでも変わらない自分の「核」を持つことが重要だと思わされました。ただ現在の自分に核があるのか、ということについては皆、まだ自分にはない、これから探したいということでした。これに対し、すでにこの6年間で核は形成されている可能性もあるのではないか、という先生のご指摘がありました。実は、大人になってから今の時期を振り返ると、女子学院での6年間は核の形成にとって重要な位置を占めているかもしれません。3つ目、「居場所をどこに見出すか」では、ありのままの自分を受け入れてくれる他者という鏡の必要性について話し、それが家族や親友などのパートナーだったり、信仰や仕事に自分の居場所を見つけることもあると考えました。
私自身、周りの目を必要以上に気にする自分に嫌気がさしていたこともありました。最近では、世界で活躍する同世代のスポーツ選手を見て、自分の非力さに嘆くこともしょっちゅうでした。しかし、修養会を終えて、そんな私も私なんだ、全ての経験は今の私を支えているんだと、思える時が増えた気がします。これから女子学院を離れ、新しい「入口」をくぐるという事は、必ずしも良いことばかりではなく、むしろ環境や周囲の人間の変化に戸惑うことが多々あるはずです。それでも”私”という存在は、ゆっくり核を形成し続け、その中で”私”という存在を等身大に写してくれる鏡に出会うのではないでしょうか。
最初に女子学院生活を振り返って、「出口」を出る自分を確認し、新しい「入口」に立つ準備をするために修養会があると言いましたが、ぼんやりとなんとなくですが、私は「出口」に一歩近づけたと思っています。しかし、現実を言えば自動的に「出口」は近づいてきます。勉強、クラブ、委員会、文化祭、体育祭など、無益だと避けてもなんとかなるものはいくらでもあります。それでも、高1高2のみなさんが、女子学院の「出口」を出る時までに、多くのことにチャレンジすることを願っています。女子学院にはやらなくては損なことがいっぱいあるからです。その時すぐに、それが自分の核を形成する要素になるとは限らないかもしれませんが、無益だと思うことも決して無益ではありません。無益だなんて、16、7、8歳の私達には分かるはずないのです。修養会も避けてしまえばそれまでかもしれませんが、女子学院の「出口」を出る前にはぜひ踏んで欲しいステップです。参加した一人ひとりにとって、それぞれの形で、参加した意義がきっと見つけられるはずです。
「自分」とは何かを考える時に「他者」という存在を抜きにすることはできません。私たちは「他者」という鏡を用いて自分の良い点、悪い点を映すことができるからです。しかし、欠点を含めて自分を認めてくれる他者の存在がなければ私たちはつらくて仕方がないでしょう。また、自分の欠点をさらけだせるほど信頼のおける他者に出会うことができなければ、私たちは「本当の自分」を自分でさえも見ようとせずに絶望に陥ってしまうでしょう。
今回の修養会では、「今日まで、そして明日から~『私』を生きる私~」というテーマで「本当の自分」について話し合いました。私自身、未だ本当の自分がどんな人間なのか把握できてはいません。しかし、この6年間を通して私という存在を認めてくれる他者である友人達に恵まれたことは大変幸運だと思っています。
また、全体会では「環境の変化で自分はどう変わるのか」ということについても意見を交わしました。その中でも私の印象に残ったのは、一人の先生が「JG生は自分の殻をやぶれずにいる人が多い、とある大学生が言っていた。」と、おっしゃったことでした。私は6年間、JGという坩堝(るつぼ)の中でじっくりと自分を熟成してきました。他の環境で6年間を過ごしていたら、今の私とは全然違う私になっていたでしょう。私は今までのJG生活の中で少なからずJG色に染まっていると思います。これは女子学院生全体にあてはまるのではないでしょうか。女子学院生はプライドが高く、人生の成功者として自信に満ちているという印象を私は感じます。それは12歳の頃に受けた、たった1度のテストに合格したということからくる自信ではないでしょうか。とてももろい事実の上に成りたっている自信です。しかし、それが私たちJG生の現実だと思います。そんな私たちは一定の価値観に固執する危険性を持ちあわせていると思います。ですから、私達は広い視野をもち多様な価値観を認める寛容さを持つ努力を怠ってはいけないと思います。
これから私たちは新しい環境に踏みこむことになります。その中で大切なのは、いかに「JG生だった」ということに執着せずに新しい坩堝(るつぼ)に飛びこんでいけるか、ということだと思います。しかし、そこで味わうかもしれない大きな挫折から自分を救ってくれるのは、やはりJGでの6年間の経験かもしれません。
あと数ヶ月でJGを去ると思うと本当につらいのですが、もう次の段階にいくべき頃合であるということは、私たち高3皆が実感していると思います。今回の修養会は、受験勉強で追いつめられてしまいそうな高3にとって友人たちと話し合いをもつと同時に、今までの自分をふり返り、これからの自分の指針を見出だすよい機会になったと思います。