入学式が行なわれました

◇入学式が行なわれました◇

入学おめでとう

(2002年度中1作品)

田中弘志院長の式辞(全文)

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。女子学院中学校は皆さんのご入学を心からお祝いし、歓迎いたします。保護者の皆様、お嬢様方の中学校へのご入学、本当におめでとうございます。お子様方がここまで成長され、いよいよ中学生としての歩みを始められるこの時にあたって、これまでの長い年月にわたるご苦労を思い返しながら、感慨を新たにしておられることと存じます。私どもは大切なお嬢様方をお預かりし、その更なる成長をお助けすべく努力していく所存でございますが、ご家庭におかれましても、学校の教育方針をご理解下さり、今後いろいろな面でご協力頂きますよう、改めてお願い申し上げます。
さて、新入生の皆さん、皆さんはこれから始まる中学校生活をどのように思い描いておられるでしょうか。おそらく希望と期待に胸をふくらませてこの場に臨んでおられることと思いますが、同時にちょっぴり不安な気持ちもあるかも知れませんね。友達が出来るだろうか、授業にはついて行けるだろうか、遠距離通学に耐えられるだろうか、などという心配は皆さん自身もそうですが、ひょっとしたらお父さん、お母さんたちのほうがもっと強く持っておられるかも知れません。でも心配はいりませんよ。誰でも新しい環境の中に飛び込んで行く時には少々不安を感じるものです。ちょっとした勇気が必要です。それは大人でも同じです。でも若い皆さんは大人よりもずっと順応性があります。柔らかい頭と柔軟な心をもってどんどん新しいことに挑戦していって下さい。新しい友達の輪を広げていって下さい。困った時には先生たちがおられます。やさしく頼りになる上級生の人たちがいます。遠慮しないでどんどんぶつかっていって下さい。何もしないで誰かが助けてくれるのを待つのではなく、自分から行動することが大切です。それが中学生になる第一歩です。
中学校に入ると、勉強の中味はもちろん、いろいろな面でこれまでとは随分違うところがあると思いますが、皆さんが女子学院に入学して恐らく一番大きな変化だと感じられるのは、キリスト教に触れるということではないでしょうか。今日のこの入学式も、讃美歌を歌い、聖書が読まれ、祈りがささげられ、という具合にキリスト教の礼拝の形式で行われていて、ちょっと戸惑っておられるかも知れません。毎日の学校生活は礼拝から始まりますし、礼拝はこの学校の中心になっている大切なものです。今はまだよく分からないでしょうが、それはそれでちっとも構いません。少しずつ慣れていって下さい。ただ一つだけ覚えていて頂きたいのは、私たち一人一人は神さまに生かされている存在だということです。教職員も生徒も同じように謙遜な思いで、私たちの造り主である神さまの前に頭(こうべ)をたれ、神さまから与えられている数々の恵みに感謝すると同時に、常に自分自身を見つめてそのあり方、生き方を真剣に考える、礼拝はそのような時でもあるということです。
先程聖書が読まれましたが、その中に「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」という言葉がありました。これはイエスさまが弟子たちに向って語られた言葉ですが、実は神さまが私たちに向って語っておられると考えることもできるのです。皆さんの場合にあてはめて言うならば、皆さんはまさに神さまに選ばれてこの学校に入学されたのです。そんなばかな、と思われるかも知れませんね。私がこの学校を選び、私が一生懸命に勉強し、私が合格を勝ち取ったのに、と思われることでしょう。それは恐らくその通りで、間違いではないと思いますが、実は皆さんがこれから読んでいくことになる聖書によれば、私たち一人一人の決断や選びの背後には、神さまの深いご計画があり、私たちにとって最もふさわしい形でそれが実現されていくというのです。それは決して私たちが願うことがその通り実現するという意味ではなくて、時には私たちの願いどおりにならないという形で神様のご計画が実現されることもあるのです。大事なことは私たちの生活が順調な時にもうまくいかない時にも、神はどんな時にも私たち一人一人を本当にかけがえのない、大切な存在としてこれに目をとめ、支え、導いていて下さるということです。聖書は、目には見えないけれども大切なものに目を注いで生きる生き方を私たちに教えてくれているのです。
ところで、女子学院中学校で大切にしていることがもう一つあります。この学校では、勉強は勿論のことですが、クラブ活動や生徒会の委員会活動、学校行事等をとても大事にしています。それは皆さんが幅広い活動や経験を積むことによって、頭も身体も鍛え、友人との交わりを通してお互いに高め合えるような良い人間関係を学び、バランスのとれた人間として豊かに成長することが出来るようになるためです。どうかいろいろなことに積極的に取り組んでみて下さい。ただそうは言っても、ひとつ心にとめておいて欲しいことがあります。何事においても他人より優れていなければならないということはありません。この学校に合格した皆さんはすでに充分に優秀な生徒たちだと私は思っています。そして一人一人に大切な個性があります。これからは他人との比較ではなく、自分の中に目標を設定して、自分に合ったペースとやり方で、その目標に向って努力するように心がけて下さい。自分の持っている良いものを見つけ、友達の優れているところに学ぶ、というような、お互いに学びあい、高め合うことのできる友人関係をぜひ作りあげていって下さい。
最後になりますが、明るく楽しい中学校生活を送るために、私は皆さんに二つのことをお願いしておきたいと思います。一つは誰に対してもきちんとした挨拶ができるように心がけて下さい。気持ちの良い挨拶は周りの人々との正しい人間関係を築くための基本です。なぜなら挨拶は目の前にいる相手の人格を尊重する行為だからです。二つ目は、人からされていやなことは、人にもしないように気をつけましょう。私たちは人から傷つけられることには非常に敏感ですが、自分が人を傷つけても気がつきもしない、ということがよくあります。それだけに余程気をつけていないと他人を傷つけてしまうことがたくさんあります。しかし他人を傷つけることを恐れるあまり、消極的になってしまうのも考えものです。聖書はこれをもっと積極的な表現で、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言っています。これらの二つは周囲の人々に対して敬意を払わなければ出来ないという点で共通しています。簡単なようでいて案外むずかしいことかも知れませんが、皆さんが中学校生活を始めるにあたって心にとめておくべき努力目標にして下さい。
皆さんの中学校生活が実り多いものとなりますように心から願いながら、校長の式辞といたします。

◇聖親会の紹介◇

聖親会の紹介、内容

「聖親会」とは保護者の方とともに「聖書に親しむ会」です。2ヶ月に1回程度行われています。会の前半は院長が聖書に基づく話をし、後半は院長を囲み、座談会がもたれています。今回は3月に行われた内容を紹介します。

『イエスの奇跡物語』第7回「生まれつき目の見えない人をいやす」
ヨハネによる福音書9章1-12節

 イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない男を見かけられました。「生まれつき目の見えないのは誰が罪を犯したからですか」と言う弟子の質問にイエスは「本人が罪を犯したのでもなく両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられてから地面に唾をし,唾を土でこねてその人の目に塗り「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。そこで男は行って洗い、目が見えるようになりました。ファリサイ人たちはそれを認めず、男は追い出されてしまいました。
《院長先生のお話より》
盲目の男はファリサイ人から見たら両親や先祖の罪のせいで盲目になった、いわゆる因果応報の考えによる罪人です。しかし、イエスにとって盲目であること自体が神様の業(わざ)が現れるためであり、この人を通して神様が何かなさろうとしているという理解に立ちます。
ファリサイ人にとっては神様と自分たちの関係を正しく保つため、律法を守ることは大事なことでした。そしてファリサイ人を始めとするユダヤの人々の間では、自分が努力して律法を守ることによって神様に受け入れられると考えられていました。
しかしイエスは安息日律法に違反し盲目の男の目をいやしました。このようにイエスはあえて律法に違反する行為をとることで、律法は人間を生かすためにあるのだということを示されたのです。
神の愛は恵みであり、人間の行為に対する代償ではありません。神はまず私たちに恵みを与えてくださいます。また、私たちは弱く欠けたところが多い存在ですが、それにもかかわらず神様は私たちを認めてくださっています。これに対する感謝と応答して私たちは人生を一生懸命前向きに生きていこうとするのです。これが聖書が私たちに伝えてくれるメッセージです。

高3の保護者の方々の声《座談会より》

女子学院へ入学するまではキリスト教に縁のない生活をしてきましたが、聖親会へ参加して感謝することを学びました。現在は受験戦争の真っただ中にあって、今まで明るかった娘がその日により気分が不安定な様子です。そんな時親にとって大事なのは、子どもを見守る忍耐力ではないかと最近わかりました。いずれ子どもの受験を迎える後輩のお母様方には、親の忍耐力を強化しておくことをお勧めします。


私は子どもの頃、キリスト教の幼稚園に通っており、優しい園長先生のお話が楽しみで小学5年生まで日曜学校へ行きました。聖親会に参加して、自分自身の物の考え方や捉え方が、日曜学校で聞いたことに根付いていることに気づきました。娘たちも6年間毎日キリスト教に触れて、聖書のお話を聞いたことが、のちのち自分の心の支えになって行くのではないかと思い、女子学院に入れてよかったと思っています。


娘は女子学院に入学してからというもの、聖書を毎日読んでいたからでしょうか、物事を落ち着いて受け止められるようになったと感じています。今年は我が家では、受験生を2人抱えていましたが、これも神様から与えられた試練と思い、1年間過ごしてきました。あまり動揺せず落ち着いて過ごせたのは、聖親会で触れた聖書の教えが心の中にあったからではないかと思います。


毎日慌ただしい生活の中で、数えるほどしか聖親会に出席できませんでした。参加したときは何かとその都度悩み事を抱えておりましたが、院長先生のお話の中で、毎回といってよいほど、その解決のためのヒントをいただきました。そういった意味でも、私にとって聖親会に出席したことは、とても良かったと思っています。


《座談会より院長先生のお話》
聖書の学びは、長い目で見ていかないとわからないものです。生徒たちも、この学校へ入って聖書に触れて、すぐに何かが変わったということではなくても、実は卒業して何年もしてから、それはひょっこり芽を出すものではないでしょうか。卒業生の話を聞くと、よくそういうことが出てきます。
また、教会で牧師さんの話を聞いていて感じるのは、自分が日常生活の中で今悩んでいることがあると、それに向かって牧師さんが語ってくれているのではと思うことがあります。聖書というのは、そういう不思議なものがあるのではないでしょうか。わが身に照らして自分の生き方にヒントを与えてくれるものが聖書の中にはあるのです。

一覧に戻る