文化祭のご案内◇
◇文化祭のご案内◇
マグノリア祭
2004年10月9日(土)・11日(月)
一般公開
9日(土) 午前9時30分~午後5時
10日(日) お休み
11日(月) 午前9時~午後4時
後夜祭:午後5時~午後6時20分
チケット制をとっております。
※ 小学生と小学生を同伴している保護者は、受付で記名して入場できます。
大人だけの入場はお断りしています。
※ 中高生は学生証を必ず持ってきて下さい。
※ 校内でのビデオ・カメラ・携帯電話などでの撮影は禁止しております。
◇文化祭実行委員長のごあいさつ◇
今年の文化祭は「心をひとつにしてすばらしいものを創ろう」ということで“One for All”という言葉をスローガンに掲げ、準備を進めてきました。マグノリア祭は1年の中で最もJG生らしさが輝くイベントです。JGの魂を感じに是非いらして下さい!!
昨年同様、マグノリア賞、ポスター大賞を実施致しますので、ご投票お願いいたします。また、今年で4回目となる講演会は9日(土)14:00~小講堂にて行います。女子学院の「自由」に少しでも興味をお持ちの方は、足をお運びください。
皆様のご来校を生徒一同、心よりお待ちしております。
◇文化祭について◇
●文化祭については、以下の点をご注意ください。
※ 小学生と小学生を同伴している保護者は受付で記名して入場できます。大人だけの入場はお断りしています。中高生は学生証を必ず持ってきてください。
※ 文化祭はチケット制になっております。
「受験生の皆さんへ」の「文化祭案内」もご覧ください。
※ 校舎内での撮影は禁止となっております。カメラ・ビデオ・携帯電話での撮影はご遠慮ください。なお、学校側で許可した方には腕章をつけて頂いております。
※ 講堂・小講堂など催し物の最中は、演奏や鑑賞の妨げになりますので、携帯電話などの電源をお切りください。
◇ひろしまの旅◇
今年も高1は7月16日~18日の2泊3日、総合学習の一環として「ひろしまの旅」に行って来ました。被爆者の方々のお話やフィールドワークでの出会いが一人一人に尊いものを教えてくれたようです。以下に二人の感想を載せます。
原爆は一瞬にして奪う
予想していたよりも遥かにひろしまの旅は重たいものであった。原爆ドーム、資料館、碑めぐり、山岡ミチコ先生の講演と日程を追うごとに、信じられないような、でも紛れも無い「事実」が重くのしかかってきた。「原爆の悲惨」を口で言うのはたやすいが、広島で本当は何があったのか、原爆を体験したことのない私は何も知らないに等しかった。それだけに実際に被爆された方の話は説得力があった。2日目のフィールドワーク先・舟入むつみ園で最も強くそれを実感した。
むつみ園は被爆されたお年寄りが入園しているホームである。行く前は正直不安だった。講演会などでは衝撃を受けつつも目をそらさずに話を聴くことができたが、お年寄りの方と1対1に近い状態でお話を伺って、その内容を「事実」として受け止め切れるのだろうか。不安を抱えたまま園に向かった。
私がお話を伺ったのは沖本絹子さん。沖本さんは14歳で入市被爆(原爆投下時に市内にいた人の直爆に対し、投下後市内に戻った際の残留放射能などによる被爆)をされた。7日の朝、4㎞離れた学徒動員先から市内に帰った。炭だけの人形のような死骸が防火水槽の中や道の両側に積み重なっていたという。その中には広島一中、二中の生徒も混ざっていた。「生きていたら皆立派な人だったじゃろうねぇ。」川に浮いた死骸を、漁港でマグロを獲るような鉤のついたさおでかき集め、油と木片をかけて燃やしていたのも見たという。夏で、腐るからだった。歩いていると「お水ください」という声が聞こえたが、姿は見えなかった。「どんなにか飲みたかったじゃろねぇ。」水をあげたかった、と沖本さんは言った。今でも、本当に残念そうだった。
お兄さんは家で被爆し胸から下を火傷、お寺に行ったが医者も薬も無かった。食べ物は多少あったが貧しいものだった。夜中寝ているとわいたウジがピチャピチャ食う音がしたという。お兄さんは3日後に亡くなった。沖本さんの友人、彼女のお母さんと下の子3人は瓦礫から出られたが、彼女は出られず迫る火に「逃げて」と言った。下の子を連れて逃げるしかなかったお母さんは、後日沖本さんに「一生地獄。下の子がいなかったら娘と一緒に死んでいたかもしれない。私は娘を捨てて逃げた鬼…」と話した。それでもその時は他にどうしようもなかったのだった。
殆ど膝をくっつけるようにして伺った話は、とてもここには書ききれない。沖本さんが話して下さる事はどれも紛れも無い事実だった。涙が出そうになる時もあったが、ごく自然に受け入れられた。実際に被爆をした方の、頭でなく体から実感として出る言葉のお蔭だろうと思う。伺った話を思い出すと今でも胸が締め付けられるような気がする。確かに私は原爆を体験していないが、少しでも体の底に「事実」の記憶を沁み込ませられていたら、それは沖本さんのお蔭と言うほかない。
話の最後に沖本さんは「(私達に)出会うの楽しみにしてたよ、ありがとう。日本の人口1億3000人の中で会えたんだものねぇ。」と仰った。それは私達が言うべき台詞なのに、心からそう言って下さった事が嬉しくて涙が出た。また、沖本さんは私達の当たり前の幸せを願ってくれた。食べるものがあり、家族や友人がいる。そんな当たり前の事がいかに大切で幸せかを実感した。同時に、それらの当たり前の幸せを原爆は一瞬にして奪うのだということも感じた。
私がこの旅で知ったのは被爆した広島の「事実」。原爆を投下したから戦争が終わったとも言うが、この事実だけは変えようがない。原爆が、当時広島で生きていた一人一人の人生とささやかな幸せを全て奪った。原爆、核兵器がもたらすのはそれしかないという事を、決して忘れはしない。
広島で思う
広島に行くことが、怖かった。けれども私は広島に行って、人を愛しいと思った。
広島に行けば悲惨なエピソードや写真を見ることからは逃げられないだろうし、今までにウンザリする程戦争や原爆について調べさせられてきた私にとって、広島の旅は気が重かった。何よりも火傷で皮膚がズルズルになった「自分と同じ年頃の女学生」の写真や、血の痕がこびり付いたままの服を見ることが怖かった。怖イ、嫌ダ、ダッテ、写真ニ写ッテイル人モ、コノ洋服ヲ着テイタ人モ、ミンナ生キテイタンデショウ?・・・だから私は怖かった。私は傷ついたことのない人間が、傷ついた人の痛みを知ることはできないだろうと思っていたし、今日の日本は平和で、私は幸せだから別に今更そんな昔のことを蒸し返す必要なんかないのになぁ、だいいち原爆が落ちたせいで早く戦争が終わったっていうのもちょっとはあるんだし、とも思っていた。
どうしてそんな風に少しでも思えたのだろう。二日目の懇談会のとき、自分がふがいなくて泣いた。本当に辛かったことを話すのは辛いことだ。それを話してくださったことで、私は急に泣きたくなった。「平和を願っている」と言いながら、平和が何なのか明言することすらできない、戦争を知ったかぶっているだけで何も知らない、自分が幸せだったら昔や遠い国でなにがあったってかまわない、そう思っている自分が堪らなく嫌で、悔しかった。私はもっと「戦争」も「原爆」も知っていると思っていた、知っているはずだった。自惚れていた。講演会でも懇談会でも「伝えてほしい」と言われた。自分のような生き方は私たちにはしてほしくないから、と。それは今の自分には一番痛い言葉だ。誰も、死にたくなんかないはずだったのにな――そう思うと何故か突然、私は、人が愛しくなった。顔も知らない、生きている時代も違う人のことをはじめて大切だと思えた。たしかに原爆が落ちたことが、戦争の終結を早めることにはなっただろう。けれど…いつ、どんなときにも、人が理不尽な理由で殺されていいはずがない。「命を懸ける、ということと死んでもいいと思うことは絶対に違う」と言う言葉を何かで読んだことを思い出した。人は、命を懸けて守りたいものがあるときのほうが生きていたいと願うものなのではないだろうか。命を懸けて、被爆者の方々は平和を願っているのだと思う。
広島に行く意味が、今ならわかる気がする。私には家族がいて、学校に行き、好きな服を着、好きなものを食べ、明日も自分の生命があることを一片の疑いも持たずに安心しきって眠ることができる。私は幸せだ。私はこれまで日本は平和な国だと思ってきた。けれどそれは、「日本」の平和でなく「私の周り」の平和だった。ヒロシマの悲劇は終わってなんかいない。ヒロシマの悲劇は世界中が平和になるまで終わることができない。私もまた、この世界に生きるものとして、将来の自分やその他の人のためにここで私なりの平和へのメッセージを残していきたい。「あなたにとって大切な人とあなたが顔も知らない人の価値はきっとあなたにとって同じものではないでしょう。顔も知らない人が亡くなったと聞いてもあなたは泣いたりしないでしょうが、あなたの大切な人が傷ついたり殺されたりしたらあなたはどう思うでしょうか。あなたが顔も知らなかった人は、59年前に亡くなりました。その人は何がどうなって自分が死んだのかわからないうちに死んだかもしれませんし、火傷で苦しみながら死んだかもしれません――その人はあなたの大切な人と年恰好が似ていました。あなたの大切な人と同じように明るく歌を歌えました、早く走ることができました、絵をかく事が好きでした、物静かな人でした、賑やかに談笑するのがよく似合う人でした、強い人でした、繊細な人でした、愛らしい人でした、凛とした人でした、柔らかな心を持った優しい人でした。その人はあなたの大切な人をあなたが想うように、誰かに愛されている人でした。その人を愛した人は、あなたと同じように泣き、苦しみ、そのことを背負って一生を生きていかなくてはなりません。あなたはその顔も知らない人と自分の大切な人の価値を全く同じにする必要はないと私は思います。あなたにしてほしいことは、あなたの大切な人を能うるかぎりの方法で同じ悲劇にあわせたりしないように守ることです。また、59年前に亡くなったその人を忘れないでください。どうかその人の分まで、幸せに生きてください。」
◇高三修養会◇
夏休みに入ってすぐに高3は、前半、後半に分かれてそれぞれ2泊3日の修養会にでかけました。御殿場寮で、寝食を共にして語り明かす時を高3の夏に持てたことは、これからの人生での心の支えになることでしょう。次の文章は礼拝で報告されたものです。
修養会では「自分にとって大切なもの」というテーマで話し合いを進めました。しかし、「自分にとって大切なもの」をグループごとで話し合っても、個人やグループ毎で意見がばらばらで、全体会ではどうまとめたらよいのか全く見当がつきませんでした。しかし、いくつかのグループに共通する考えがありました。それは他者との関わりです。大切なものは他者と関わることによって生じるのではないかということです。そこで、委員は他者との関わりを全体会のテーマにしました。
全体会では、そのテーマをもとに様々な話し合いが展開されました。初めの方こそは殆ど意見がでず停滞していましたが、終盤に入ると、発言の度に拍手がわきおこるという奇跡の盛り上がりをみせました。そこで話されたのは、私達は想像力を使い、他者の感情や他国の状況をもっと考えるべきだといったものです。
それでは修養会を通じて私なりになぜ想像力が大切なのか考えたことをお話したいと思います。
3年前の8月、私は旅行でニューヨークに行きました。もちろん様々な所を観光しましたが、今となって1番忘れられないのは、世界貿易センタービルから眺めた夜景です。屋上はとても風が強くて、けれども四方に広がる景色は本当に美しく、街灯や車のライトがキラキラ輝き続ける光景を見て、絶対に忘れたくないと思いました。しかし、それは一ヵ月後の9月11日になって忘れられないものに変わりました。テロの映像をテレビで見た時、私達はどのように感じたでしょうか。大きな衝撃を受けたとしても、それはまるで映画の1シーンを見ているように、心のどこかでは遠い世界のことのようで、自分とはあまり関係ないと感じてしまうのです。実際その場に行ったことのある私も、思い出す度に心が痛むとしても、アメリカ人や犠牲者の家族の深い悲しみとは比べものにならないでしょう。そして、それからというもの、一体なぜ世界では対立がなくならないのか不思議でなりませんでした。しかし、修養会を通してその謎が解けました。原因のひとつには、異なる国家や民族間につくりだされる共約不可能性があげられます。国家や民族といったものに代表される文化的共同体は個々に特徴を持ち、相容れないものを持ち合わせています。例えば、民主主義と聞くと、私達日本人はとてもよいもののように感じますが、ヨーロッパの人にとっては、フランス革命中のジャコバン独裁を思い起こさせるものであり、あまり良いイメージはないそうです。このように国や地域で歩んだ歴史が異なるので、生活習慣や宗教、言語、価値観など異文化間には共約不可能性が無数に存在しうるのです。確かに現在はグローバル化し、経済的に独立する国がほとんどありません。しかし、各文化の特徴がなくなって世界の人みんなが同じ生活をしているわけではありません。なぜなら、私達は自分がある文化的共同体に属しているという意識によってアイデンティティを持つことができるからです。
そもそも人間は核を持っておらず、本当の自分なんて存在しません。らっきょうの皮をむいていっても何も残らないように、私達はひとりひとり世界のかけらの集まりで、純粋な自分というものはありません。かつてゲーテは次のように述べました。
「われわれが生まれ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響を与え始め、死ぬまでそれが続くのだ。いつだってそうだよ。一体われわれ自身のものと呼ぶことができるものが、エネルギーと力と意欲のほかにあるだろうか!私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙っているものの名をひとつひとつ挙げれば、後に残るものはいくらもあるまい。」
しかし、人間は核がなければ自分の存在を証明できなくなり、精神的に安定できません。ですから、私達は自分を治めるために、自分の存在を説明しうる幻影を追っているのです。その際に国家は大きな役割を果たします。自分は国民であるという意識、つまりアイデンティティを与えてくれるのです。例えば、私達は普段Jリーグの試合を見ないのに、代表戦になると国中で応援しだしたり、オリンピックで日本がメダルラッシュだと自分は何もしていないのにもかかわらず何だか誇りに思います。それは自分が日本人であるという意識を持ち、自分を治めるために必要なものなのです。
しかし同時に、ナショナリズムは排他主義にもなりえます。自分がどこかに所属しているということは、そこに所属しない人が存在してのみありえます。自分の所属、つまり自分の存在理由を説明し、共同体全体をまとめるには他を排斥するのがもっとも簡単で、かつ有効的な方法です。アジア杯では中国人の排日主義が明るみに出ましたが、それはかつて政府が排日を掲げることによって広大な領土に及ぶ国民をまとめようとしたからです。このように、それぞれ個人が自民族中心主義であれば、異文化間で衝突がおこるのは当然です。
そこで必要なのは、各文化的共同体の独自性や相違を認めて、その上で各文化的共同体の共約可能性を探ることです。そのためには一歩引いてから、想像力によって異文化をある程度理解しなければなりません。ひとつの文化に固執するのではなく、自分をも客体化して世界をとらえる必要があるのではないでしょうか。私達は想像力をうまく使えないので、この世界に起きている事件をどこか遠い外国の出来事として片付けてしまうのです。人間が想像力を使わない限り、対立はこの世界から永遠になくなることはないでしょう。
いま改めて考えてみると、修養会で大切なことは意見をまとめることではなく、他者の様々な考えを聞くことにあるのではないかと思います。他者の考えを聞くということは自己を形成することだからです。確かに自分のはっきりとした考えを持つことは大切です。しかし、だからといって、他者つまり世界に全く目を向けないのは自分の可能性を狭めることであり、想像力を与えられた人間にとって最も愚かな行為とも言えるでしょう。
修養会はまさに他者に目を向けて、他者と関わることによって自己を形成する場であったと思います。
◇御殿場教室◇
中2は初めての御殿場寮で2泊3日の「御殿場教室」を体験しました。前半は7月21日~23日、後半は23日~25日で、新鮮で実りの多い体験だったようです。2人の感想文をお読みください。
御殿場教室を終えて
七月二十三日から二十五日まで、御殿場教室がありました。最初は、プログラムの多さに驚いて、大変そうだな、途中で疲れて嫌になってしまうのではないか、と不安でした。しかし、実際に過ごしてみてみると気持ち的にとても短く、あっという間の3日間でした。それでいて中身はとても濃く、充実していたように思います。
吉高叶先生の講演は本当に素晴らしく、心に響くものがありました。先生ご自身の様々な体験を話して下さり、たくさんのメッセージをいただきました。その中で、私の中でとても印象深かったのが「一生懸命生きる」ということの大切さでした。
先生が瀬戸内海の大島で出会った元ハンセン病患者のみなさんは、心から神を想い、讃美していたそうです。大声でくったくのない歌声。必死になって聖書をめくり、目を近づけて読む姿。そこには、全てを捧げてでも神を愛する真実の信仰があったのだと思います。
患者の一人であるAさんは、吉高先生を心からの笑顔で迎えてくださったそうです。不自由な体を頑張って動かし、礼拝前の鐘つきをなさっているAさんには、本当に人の心を感動させる力があった、とおっしゃっていました。私は、Aさん自身によって素晴らしく輝く命、そして一生懸命に物事に向かっていく姿勢がそうさせたのだと思います。
私達は一人一人違って、それぞれに本当に素敵なたまものを神様から与えられています。それを自分の個性として誇りを持つ、ということが大事なのだと思います。喜びと感謝の気持ちを忘れずに生きていきたいです。
この御殿場教室で、私が一番心に残ったのは、最後の全体会です。三日間を通しての感想を話し合いました。その中で、「この御殿場教室の出会いを、今後どう活かしていくか」ということについてディスカッションがあり、いろいろな人の意見を聞くことができました。「御殿場という特別な場でないと、友達と親しくはなれないのだろうか」という問いかけには、はっとしました。女子学院での普段の生活は、授業にクラブ、委員会などとても忙しいものです。その中にも様々な人との交わりがありますが、それをもっと深めていこうという積極性が足りないのだと気づかされました。
先生が、元ハンセン病患者の方々と出会っていろいろなことを学ばれたように、「出会い」は私達を内面的に、とても大きく成長させてくれると思います。しかし、ただ単に「出会い」の段階で終わらせてしまうのは本当にもったいないことだと思います。
「出会い」をさらに発展させ、相手とより良い関係を築いていくには、コミュニケーションが必要不可欠です。そして、いかにコミュニケーションを深めていくかは、私達次第なのです。
9月になって学校が始まったとき、朝や放課後にあいさつをする、休み時間に話しかけてみるなど、私達にできることはたくさんあります。自分から進んで周りの人とふれ合うことの大切さを心に留めて、御殿場教室での素敵な出会いを、これから活かしていこうと思います。
御殿場で学んだこと
今回の御殿場教室では二泊三日にわたり「出会い・ふれあい・思い合い」について十五のグループに分かれて話し合った。御殿場で行われた吉高叶先生の二回の講演を通して一番心に残ったのは「出会いとは人にとってとても重要なものである」という言葉である。先生は講演の中で大島での元ハンセン病患者との出会いが今までの自分を変えたとおっしゃっていた。
私は先生のように今までの自分を変えるほどの大きな出会いをこれまで経験したことがない。もしかしたらそのようなきっかけはあったのかもしれないが、私はそんなこととは知らず通り過ぎていたのだと思う。なぜなら、私が出会いというものを軽く見ていたからだ。先生の言葉を聞くまでは出会いなんてたくさんある偶然のものにすぎず、それほど貴重なものではないと思っていた。だからたとえ新たな出会いがあっても自分から積極的にコミュニケーションをとろうと考えたことがなかったのだ。新しく出会った人と友達になろうと努力することもなく、既知の好きな友達と一緒にいて、必要な時だけ話すということしかしなかった。
それはすごくもったいないことをしていたのだということに気づいた。もし小さな出会い一つ一つをもっと大切にして、自分からコミュニケーションをとっていたら友達の輪はもっと広がっていたかも知れないのに、私はそんなことをしないで今までを過ごしてきたのだ。もしかしたら新しい友達だけではなく、先生が経験された出会いのように自分の考えを改めさせてくれる出会いになっていたかもしれない。自分の人生を変えてくれるかも知れない大きな可能性が出会いにあるという事を私は先生の講演を通して学んだ。
また、出会いを自分のものにするためにはちゃんとコミュニケーションをとるということも重要なことなのだ。これまで知らなかった人達と友達になっていくというように「~になっていく」ためには弱い方に目線を合わせることがコミュニケーションをとる上で必要だと先生がおっしゃっていた。今までの私を振り返ると、私は他人に目線を合わせることはせず、自分中心にコミュニケーションを取っていたことが分かった。そのような方法では、相手の人と実はコミュニケーションがとれたことにはなっていなかったのかもしれない。コミュニケーションとはお互いに意思の伝達しあうものであって、どちらかが一方的にするものではないことに気がついたからだ。自分のことを誠意をもって伝えるとともに、相手のことを謙虚に受け入れるという作業を積極的に行うことは難しいが、そうすることによって出会いの持つ可能性を大いに高めることができるのだと思う。
今まで新たな出会いに対して消極的だった私の考えをこのように変えてくださった先生にはとても感謝をしている。いままで大きな出会いをしたことがないと書いたが、先生のお話との出会いこそ私にとっては大きな出会いだったのではないかと思う。
◇夏の合宿の報告◇
今年も例年どおり、各クラブ、同好会で夏合宿が実施されました。各クラブとも2泊3日から4泊5日の日程で、クラブの班員たちで共同生活を送ります。御殿場寮では食事の配膳も宿舎の掃除もすべて自分たちで分担し、規律を守って活動します。また御殿場寮以外の合宿でも、合宿の実施に向け、綿密な計画をたて上級生が下級生をよく指導しました。
日頃の活動に比べ、集中し充実したプログラムを組んでいるため、各クラブとも大きな成果を上げました。また、メンバー同士の親睦も深まり、クラブとしてさらに強い結束が生まれました。
御殿場寮ではクラブ以外でも高3の「修養会」、中2の「ごてんば教室」も行われ、参加のべ人数は24団体1299名、御殿場外の合宿は高1の「ひろしまの旅」も含め5団体349名、夏休みを通して合計1648名が参加しました。
合宿風景