創立記念日集会

◇創立記念日集会◇

女子学院は、10月25日に創立134年を迎え、全校で創立記念日集会を行いました。
中学は、三上かーりん先生(仁愛女子短期大学名誉教授)、高校は樺山紘一先生(国立西洋美術館長・東大名誉教授)を講師にお迎えして、講演をしていただきました。また、それに先立って、「女子学院の歴史」・「創立記念日を迎えて」をテーマに、講堂礼拝を中・高でそれぞれ守りました。
以下に記念講演の概略と礼拝の抜粋を掲載いたします。

◇創立記念講演◇

<記念講演・中学の部>「心の栄養――讃美歌」三上かーりん先生 (仁愛女子短期大学名誉教授)

聖書には「はじめに言(ことば)があった」(ヨハネによる福音書1章1節)と記されています。「神の言葉」は、福音です。神さまのエネルギーは音に運ばれて広まり、私たちの耳から心に入ってきたのです。讃美歌も、耳から心に入り、心で聴くものです。
音楽にはリズムがあります。楽譜の「C」は4拍子のしるしですが、これは「○」(円、完全)に対して、「C」(半円、不完全)を表し、人間の生活のリズムを指しています。
4拍子の讃美歌を共に歌ってみましょう。「慕わしき主よ、わが牧者よ、はかり知られぬ愛の泉。迷うこの身をたずねもとめ、導きましし日ぞなつかし(おしたいする主・キリスト、あなたは豊かに愛を注いでくださいました。苦しみ悩む私のところに来て下さって、お導き下さったあの時のことが思い出されます。)」(讃美歌21・311)
――4拍子のリズムで一歩一歩歩んでいる私たち。メロディは心細さを表しています。しかし救いの主と出会い、メロディは最後に安堵と感謝の和音となります。
毎朝の礼拝で讃美歌を歌い、また聴くことが、皆さんの心を豊かに養うよう祈っています。

<記念講演・高校の部>「キリスト教とヨーロッパ文化」樺山紘一先生 (国立西洋美術館長、東京大学名誉教授)

近年、日本でも「ハロウィーン」の商品がデパートを賑わせていますが、10月31日にアメリカやヨーロッパで祝われるハロウィーンの起源を皆さんはご存知でしょうか。それは、キリスト教がヨーロッパに広まる以前のケルト人たちの風習に遡ります。彼らの暦では11月1日が一年の始まりでした。「ハロウィーン(Halloween)」の語源は「聖なる日の前日」で、この日は家畜を放牧地から呼び戻して小屋に入れ、家の暖炉に火を焚いて悪魔祓いをし、冬を迎える心構えをする日だったのです。
パレスティナの地でうまれたキリスト教が異境ヨーロッパに移植される際、このような民俗慣習にキリスト教の精神をふき込む努力がなされました。前述の11月1日を「諸聖人の日(万聖節、All Saints’ Day)」と定めてキリスト教の暦でも重要な日とし、ケルト人にとって「送り盆」にあたる翌2日を「諸死者の記念日(万霊節、All Souls’ Day)」としたのは、その一例です。
クリスマスが12月25日に祝われるようになったことにも、同様の背景があります。この時期は冬至にあたり、一年で一番寒く、暗い時期です。中近東でも、ヨーロッパでも、明日から太陽が力を増していくことを祝う冬至祭が行われる日でした。キリスト教会は、この日を、救い主イエス=キリストの誕生を祝う日としたのです。また、冬至祭の終わり(1月6日頃)に贈り物を交わすヨーロッパの習慣にも、東方の三博士がイエス=キリストを訪ねて贈り物をし、王として礼拝した日(顕現日)としてキリスト教による意味づけが行われました。
このように、何百年もかけてその土地の人々の民俗慣習との習合をはかることで、キリスト教はヨーロッパの地に根づきました。そして、ヨーロッパの森林文化の中に息づいてきた妖精・精霊を受容し、天使・聖人たちの祭儀に昇華するなど、宗教儀礼を発達させてきたのです。民俗慣習とキリスト教の習合は、芸術の分野でもヨーロッパの文化を豊かに育んできました。ボッティチェリの絵画や、シェイクスピアの喜劇「十二夜」に、そのことは顕著です。西洋美術館を訪ねて実感していただければ幸いです。

◇創立記念日を迎えるにあたって2004◇

創立記念日を迎えるにあたって(篠崎)
聖書 Iコリント3:10~17

今朝は「創立記念日を覚えて」という題が与えられた。そこで改めて女子学院が生まれるまでの経緯とそれに関わった人々のことを思いおこし、この学校が大切にしてきたことは何であったかを、皆さんと共に考えたいと思う。
1.女子学院設立の経緯
女子学院のルーツは、明治の初めに女性宣教師や日本人キリスト者によって建てられた3つの女学校にさかのぼる。第一は1870(明治3)年、築地居留地の6番にカロゾロス夫人が設けたA六番女学校で、この学校はその後、原胤昭に引き継がれて原女学校となった。第二は1874(明治7)年にミス・ヤングマンとミス・パークが同じ築地居留地六番地に設立したB六番女学校で、その後、居留地42番に移転して新栄女学校となった。この新栄女学校に赴任してきたのがマリア・ツルーであり、ツルーに招かれたのが矢島楫子であった。そして第三は1876(明治9)年に桜井ちかが始めた桜井女学校であり、ツルーと矢島は桜井ちかが北海道に去った後、桜井女学校に移ってこの学校を支えた。そしてこの3つの女学校が1890(明治23)年に合併して女子学院となった。ちなみに現在創立記念日となっている10月25日は、明治9年に桜井ちかがこの番町の地に女学校設立の許可を東京府から得た日である。女子学院の基となった女学校が生まれた背景には、幕末に開国して以来押し寄せてきた西洋文化、特にキリスト教宣教師の働きと、それを受け止めて明治初めに急速に広がっていた文明開化とよばれる風潮、その中でおきた英語学習ブームがあった。しかしこうした英語塾の多くはやがて消えていった。そうした中で女子学院が残った理由は何だったのか。

2.明治のクリスチャンについて

ところで、明治の初めにクリスチャンになった人々には、幕末の動乱に際して幕府の側に属していた人が多いといわれる。戊辰戦争に負けて明治維新を迎えた人々にとって、かつて自分たちが仕えていた幕府や藩はすでになく、自分たちが占めていた地位は失われ、新政府は薩長出身者で占められていて出世は望めなかった。クリスチャンになっていった人々はそうした深い挫折感の中でキリスト教に触れることで、政府の進める文明開化政策を表面的なものととらえる見方を身につけ、自分たちこそ文明開化にふさわしい精神的指導者になろうと新たな再出発を誓った人々だった。そしてキリスト教と教育を通じて人間をつくり、それによって精神の革命を日本にもたらすことこそが、新しい国づくりのために自分たちにできることだと考えたのである。一方、こうした日本人にキリスト教を伝えた宣教師たちも、イエスの福音を伝えるだけでなく、当時圧倒的な強さと自信に満ちていた西洋文明を日本に伝えることに使命感を持っていた人々だった。つまり、明治の初めのキリスト教は伝えた側においても受け止めた側においても「文明の宗教」だった。
こうした信仰のありかたには問題がある。というのもこれでは所詮キリスト教は日本の文明化に役立つ限りにおける信仰でしかないからである。また、彼らの持つエリート意識も気になる。

3.先人たちの思い

これに対して、女子学院に連なる学校に関わった人々は、宣教師の世界でもまた日本人キリスト者の世界でもいわゆるエリートとよばれる人ではなかった。
昨年の創立記念日集会にいらした大西敏樹先生は、ヘボンらの著名な男性の宣教師とマリア・ツルーら女性宣教師の間にあった女性の役割や社会のありかたに関する意識の違いを話してくださった。当時女性宣教師は、男性宣教師から相手にされていないに等しい存在だったと言われる(つまり男性宣教師自身が女性に対する差別意識を持っていた)。そうした中でツルーは当時の日本社会を見、幼稚保育科・看護婦養成所・衛生園・女子独立学校を設立し、「日本の女子教育は日本女性の手によって完成されるべきである」という、当時としては驚くべき考え方に立ち、まだキリスト教の洗礼すら受けていなかった矢島楫子を教師に招いた。そして招かれた矢島楫子は、強い意思の持ち主であると共に、自らの過去に影を持つ人物でもあったことは皆さんもご存知だと思う。そういう楫子は生徒を信頼し、自由、自立、自治という言葉に代表される女子学院の校風を築いていった。これは女子学院の歴史のごく一こまの出来事にすぎない。しかし、女子学院を築いていった人々は、「文明」の側に立とうとした男性の宣教師や多数派クリスチャンの人々が持っていた矛盾を感じ取ることができ、物事を弱い者の側に立って受け止めることのできた人だった。それだけにツルーが語った「あなた方は女としていかなる理想を持って生きるか、世俗的な幸福だけを求めるのでなく、高尚な志を生かす真の力を養いなさい」という言葉は重い響きを持って私たちに問い続けている。

4.志と力を得るために

今朝の聖書の箇所では、イエスの土台の上にどんなもので家を建てるかというたとえが語られている。皆さんが一番気になるのはどの部分だろうか。私は以前、12節の「金、銀、宝石、木、草、わら」という部分が気になっていた。しかし今の私には11節の「イエス・キリストという土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない」という言葉がとても重い意味を持って響いている。私たちは「神の器」であり、イエス・キリストという土台の上に自分の為すべきことを見出し、ベストを尽くしてできることをやってゆく、そういう生き方をめざしたいと思う。

◇村瀬先生の礼拝◇

受け継がれてきたもの(村瀬)
聖書 マルコによる福音書2:1~5

女子学院成立の三つの流れのうちの第1番目のカロゾルスのA6番女学校のあとを継いだ原女学校の創立者原胤昭に興味を持って、百年史などを読みました。
原胤昭は1853年ペリーが来日した年に代々南町奉行与力の家に生まれ、14歳で与力になりました。しかし、すぐに江戸から明治になってしまい、東京府記録方という官吏になりました。原もその父親も「これからはやそ耶蘇をやらなくては文明開化にならない」といって、宣教師に近づきました。彼は、1873年カロゾルスの「築地大学校」に入ります。この人は私たちが知っているカロゾルス夫人の夫です。原胤昭はここで英語や聖書を学びます。原は西洋文明としての耶蘇に近づいたのですが、イエス様はしっかり捕らえてくださって1874年に他の友達と一緒にカロゾルスから洗礼を受けます。彼はそのとき二十歳位でした。原は「自分は伝道者にはなれないが、伝道をする」といって猛然と伝道をし、1874年には十字屋という本屋・出版社を銀座に開業して文書伝道に励みます。
1876年カロゾルス夫妻が広島に赴任の為、A6番女学校を閉校することになったとき、原は女子の学校がなくなることを惜しんで自分で学校をつくり、原女学校という名前にします。生徒は20~30人でしたが、横浜からミセス・ツルーを迎えて教育にあたらせます。ツルーは自分の伝道の拠点を学校内に置き、原は「救済義会」という貧窮者救済事業の拠点をやはり学校内に置き、学校だか伝道や社会事業団体だかわからないようなところで、今の学校とはだいぶ違っていたようです。この時期は生徒も社会に目を向けて活躍しています。また、同時に原は「東京新報」というキリスト教系の新聞を発刊しています。この頃の生徒は「教育や学問について」「自分の修養について」「文明時評」など、どんどん新聞に投書をしています。当時の生徒は学んだことを実践と結びつけ、社会に向かって言わずにはいられなかったのではないでしょうか。この原女学校は経営難の為1878年に閉校してしまい、生徒たちは新栄女学校に移り勉強を続けます。原胤昭はその後学校の事業からは手を引きますが、多方面でいろいろな働きをします。

西洋にはクリスマスカードというものがあることを知り自分でも錦絵作家に絵を作らせカードを発売したりします。その錦絵とも関係があるのですが、会津で起こった福島事件にも関係します。これは新しく来た県令の悪政に県議会の人々が抵抗して戦い、投獄された事件ですが、原はこの人達を支援して錦絵を売ったり配ったりしたので、自分も思想犯として獄に入れられます。このときに獄中での環境の悪さ、待遇の悪さを身をもって感じます。原自身もチフスで死にそうになり、実際に友人は死にました。こういう経験から原は受刑者に目を向け、受刑者を懲らしめるだけでなく更生させなければいけないと感じ、そのために働き出します。後には日本初のキリスト教教誨師になり、生涯をかけて刑期を終えて出獄してきた人の保護活動をします。
原の行動力には舌を巻きます。この行動力は本人の性格かもしれませんが、常に「人が大切にされているか」ということを考えていることに発していました。この視点は原女学校当時の生徒にしっかり伝わり、代々の生徒に受け継がれています。そしてそれが女子学院の伝統の1つになっています。今でも多くの卒業生が「人が大切にされていない」と気づいたら改善のために行動しています。
先日、女子学院の同窓会報で、卒業生の紹介の欄に行動力とアイデアの伝統を受け継いで活動している人を知りました。それは「飛んでけ!車いす」という題で紹介されていた札幌の吉田三千代さんのことです。吉田さんは日本の養護学校や病院で不要になった車いすを整備して、アジアなどの開発途上国に旅行者の手荷物として持っていって届けてもらう活動をしています。ネパールとバングラデシュの障碍者事情を現地で知ったことがきっかけだったそうです。日本に帰ってきて「車いすを送ろう」と考えましたが、送料が1台50万円もかかることが分かりました。しかし、外国へ出かける人に手荷物として運んでもらえば送料はかからないというアイデアを得て活動を始めました。彼女の立ち上げた市民団体はそれまでの人脈や語学力を使い、資金集めや国内での運搬の手はずを整えることなどをしてきました。吉田さんも「人が大切にされていない」ところに目を向けて活動をはじめ、アイデアを出し、知識を使って企画しているところが卒業生に伝わる伝統を受け継いでいると思います。
今日読みました聖書は4人の人が1人の中風の人を救ってほしいとイエス様のところに運んできたが、混雑していたので屋根に穴を開け中風の人をつりおろしイエス様に癒してもらった話です。一人の人を助けるためにみんなで協力し、アイデアも出し合うという行動力、企画力を女子学院の伝統の一つとして受けついでいきたいものです。

◇久布白落実◇

「神を信じ、また自分を信じなさい~久布白落実(くぶしろおちみ)」(梶原)
聖書 イザヤ書 40:31

今年の夏休みに入ってすぐに日本キリスト教婦人矯風会から連絡があり、久布白落実が1970年に女子学院で講演をしたテープが残っていれば欲しい、ということだったので、捜して会に差し上げました。
久布白落実は明治36年に女子学院を卒業し、後に日本キリスト教婦人矯風会の会長をつとめた方で、1970年というのは、女子学院が創立100周年を迎えた年で、その記念の講演をしてくださったのです。
今回、改めてテープを聞き直してみました。その中で、落実は女子学院で学んだことを「神を信じ、また自分を信じなさい」であり、「神を信じるということに一生をかけるということだ」と力強く語られていました。そして、女子学院の在学時代に信仰を持つことと勉強をすることを徹底的に叩き込まれたと言っておられました。久布白落実は矢嶋楫子の姉の孫で叔父が徳富蘆花・蘇峰兄弟です。皆さんがご存知の矢嶋楫子の言葉「あなた方は聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」という言葉は彼女が『女子学院五十年史』に書き記してくれた言葉です。
久布白落実は明治15年熊本で生まれました。「落実(おちみ)」という名前は父親がどん底の生活をしている「おちめ」のときに生まれたので「落実」と名づけられたといいます。後に同志社の新島襄から「子供にそんなことをしてはいけないと」とたしなめられたといいます。しかし、父は回心し、同志社の新島襄の助けを受け牧師となります。
落実は最初、前橋の共愛女学校(現・共愛学園)に学びました。当時、共愛には女子学院の卒業生のガントレット・恒(作曲家・山田耕筰の姉。国際結婚をした方)が教師をしており、落実のことを「優秀だが笑わない可愛げのない女学生で、矢嶋楫子先生そっくり」とその印象を書いています。その後、女子学院に移るのですが、初めて矢嶋楫子と会った時、楫子は落実を見て「この人はきれいでないから続くでしょう」と言ったとあります。明治時代は高等科(今の大学レベル)まで勉強を続ける人は少なく、途中で結婚のためにやめる人が多かったのです。落実は卒業後、父が伝道していたアメリカに渡り、その仕事を手伝っていましたが、その後結婚し、3人の子供が与えられます。そして30歳を過ぎてから、日本キリスト教婦人矯風会の仕事に携わり、89歳で亡くなるまで廃娼運動と婦人参政権運動に積極的に取り組み続けた方です。当時の女性は地位が低く、参政権もなかったため、根本的な女性の地位向上のため、婦人参政権運動へと至ったのです。実は、落実は30代半ばで夫と娘1人を亡くしておりましたが、活動を始めて50年で、ついに昭和31年に売春防止法を成立させました。
小さな身体で、家庭的な困難にもめげず、どうしてエネルギッシュな粘り強い活動を続けることができたかというと、それは「毎朝の祈り」にあったといいます。落実は毎朝、聖書を2節ずつ、日本語とギリシャ語、英語、ドイツ語、中国語の5ヶ国語で読んでノートに書き写して祈っていたといいます。そこから毎朝エネルギーを得て、力強い活動を続けたのです。そして、80歳になってから神学校に通い、83歳で牧師の資格試験に合格し、念願の牧師となりました。先ほどお読みしたイザヤ書40章31節は久布白落実の晩年の愛唱聖句です。落実は自分自身が老境に入っても、次の時代を担う若い人達の育成に心を注いで、ついに老人問題には手をふれなかったと言います。亡くなられる直前にある老人ホームの機関紙に「老人会は大嫌い」と題した文章を書いていたと言うくらいです。
私が1970年在学時に講演をお聞きした時は87歳で、まさにイザヤ書の後半「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」、笑顔と元気いっぱいの小さなおばあさまという印象で、話を伺うことにより、こちらが元気になるような方でした。

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