◇中3創作ダンス発表会◇
◇中3創作ダンス発表会◇
3月10日 「育む」という題で発表会がありました。次にプログラムをご紹介します
1. 「ひまわり」
2. 「絆」
3. 「マグノリアの花が開くとき」
4. 「花」
5. 「植物の成長」
6. 「個性と調和」
7. 「青春」
8. 「生命」
どのグループも生き生きと力いっぱい表現していました。
◇奨励礼拝◇
3月16日 恵泉女学園名誉学園長の秋田稔先生が卒業生に「一歩踏み込む」という題で奨励礼拝をしてくださいました。
一歩踏み込む - 「イエスのこころ」と「女子学院のこころ」
聖書 ヨハネ福音書第5章1-14節
讃美歌121 385
女子学院の卒業礼拝で、皆さんとこのように顔を合わせることが出来て私は嬉しく思っています。もう随分前になりますが、卒業式でお話をさせていただいたことがありました。今朝は「一歩踏み込む」という題で皆さんのこれからの新しい歩みの一歩を新しい気持ちで踏み出して欲しい、現実の世界に勇気と希望を持って一歩踏み込んで、むしろ新しい世界を造る一翼をそれぞれのところで担って欲しいと願って、ご一緒に聖書のイエスに学びたいと思います。
私は半世紀に亘って、ICUから始まってキリスト教に教育の基盤を置く四つの学園(キリスト教学校)で、一人の自覚した人間としての誕生の時(出発点)にいる若人たちと、先入観を持つことを敢えて拒否して、学びの生活を共にしてまいりました。共に生き、共に学ぶ中で、若者の実像(人間の本来の姿と言った方がよい)を、まさに一人一人の生ける現実として、私自身の若き日の想起をも含めて、深く知らされたように思います。
今の時代、少年少女、若者をめぐって想像を絶する出来事が次々と起こっていますし、若者批判もいや程聞こえてきます。しかし、私はその同じ若者たちに接してきて、その心の奥底にはほとんど皆例外なく、一方では人には言えない苦悩を宿しつつも、他方彼らの心の柔軟であること、その猛烈な内的エネルギー(可能性)の噴出に驚き、心打たれたことが幾度もあるのです。若者は、若いだけそれだけこれということ、この人こそという人に出会うと、先入観、偏見などに全く囚われないで、鋭い純なる感性、感受性をもって、このこと、この人こそという人に体当たりしてゆくのです。彼らは偽者を嫌い、本物に感動するのです。むしろ現今のスピードと効率万能の世相、大人の無責任社会の方が若者の感性を鈍らせている、それが現実で、その現実が打ち破られて、大人も若者もその感性を目覚めさせられ、研ぎ澄まされ、本当の知性(intelligense)、そして霊性(spirituality)と結び付いた時に、若者が真に一人の自立した人間になるきっかけをつかむでしょう。自己(self)をめぐる問題、社会・自然環境の問題に豁然と目開かれて、積極的に世の問題に取り組んで前向きに生き抜こうという気力、気迫を持ってくるでしょう。
ここ女子学院も、このことを(創立以来)深く意識し自覚されて、若い皆さんに接し、真理の前に本当に謙遜になって学びを共にしてこられたと申してよいでしょう。
今申した心の柔軟さ、純なる感性ということでふと私の心に浮かぶのは、あのミヒャエル・エンデの「モモ」のことです。一人ぽっちの貧しい女の子モモ。しかし彼女は一輪の名もない野の草花が語りかける声を聞く繊細な、優しい感受性を持った少女でした。彼女と顔を合わせていると、何時の問にか大の荒くれ男の心も和んでくるのです。自分を何処かに置き忘れてきたような大人の方が「自分」を取り戻すのです。モモのような柔らかい無垢の感性は実は人の心の一番底のところにもともと誰にでも備わり、隠されている、きっかけがあれば目覚めて来ると私は思うのです。聞こえない自然の声、人の声、そして出来たら天の声を聞き取る濃やかな感性を、私たち何としても持ちたい、回復したいと思います。
こういう感性、ひと(他人)の声、そして神の声を徹底して聞くということ、そしてその回復(本当の人間としての目覚め)と関わって、私の心に私の全てを圧倒するように迫ってくるのが、イエスその人です。聖書のイエスに心を込めて対面しようとすると、感性の豊かな、神が「わたしの愛する子、わたしの意にかなった・・・」と言われた本当に人間らしい一人の人間「この人こそ」という人に私どもは出会うのです。
さて、今朝お読みしたところ、水が動く時に真っ先に池に入ると不治の病いも治ると言われる霊験あらたかなエルサレムのベトサダの池での出来事です。池の周りの回廊には、人々から、身内の者からも見捨てられた多くの病人が体を横たえています。その中の一人、彼は三十八年もの間病いに苦しんできました。それまでの人生の大半をただ治りたい一心でこの池の端で起き伏ししていたのでしょうか。何とも悲惨です。同病相憐れむどころか、自分のことしか考えない彼ら病人たち、我先に池に入ろうとひしめきあっているのです。お互いを思う心なんて一かけらもない異様な情景です。
この孤独な一人の病人、その彼が、実に三十八年目にして、彼を相手としてくれる一人の人に出会うのです。イエスがその人でした。彼はイエスが何者であるか知りませんでした。三十八年間誰からもまともに相手にされず、対話ということを忘れ、言葉を失っていた彼。イエスの「治りたいのか」の一言。この時、この男はまさしく自分と同じ平面で、自分に向かって語りかけられる言葉を聞いたのです。自分に閉じこもり冷えきっていただけそれだけ、一人の人を人間として目覚めさせる程の暖かさを、彼はイエスのまなざし、この言葉に瞬間感じたのでしょうか。この男も人の子でした。言葉を失っていた彼が口を開くのです。開くことが出来たのです。しかし、彼の最初の言葉は、ゆがんだ言葉でした。「誰も手を貸してくれようともしないのです。私が入りかけると、私を突き飛ばして他の人が先に降りていってしまうのです」。とにかく彼は自分の心の内、溜まりにたまった思いを、そのまんま口に出すのです。彼とても、他人を押し退けてでもいの一番に池に入りたいのです。それが出来ないだけなのです。立場が変われば、彼は誰も手を貸してくれないというその誰と同じ態度をとるでしょう。その限り、彼は自分を被害者の立場にいち早く置く加害者の一人でもあるのです。しかしやはり彼も人の子でした。人間、一人の例外もなく心の一番奥底に真(まこと)なるものに感応する心をしまい込んでいるのです。
その彼へのイエスの次の言葉はこうでした、「起きて、(お前のその)担架をかついで歩きなさい」。イエスはこの男をまるごと、ゆがんだ心のまんま受け入れて語りかけているのです。一人の人が、その全人格を傾けて、向かい合っている一人の人の存在全部に語りかける言葉、そこで初めて何かが起こります。「立ちなさい」という言葉の中に、誰も相手にしてくれる筈もないこの私に、正面きって語られ、差し延べられた手、全身をもってする言葉を彼は聞いたのです。この「立ちなさい」は言葉としてはそれだけのことですが、誰一人として言ってくれもしなかったこの「立ちなさい」の一言に、彼はこの世ならぬある命(いのち)そのものを一瞬感じた、「立ちなさい」ではなく「立てるよ」。まさにいのちの言葉。その瞬間、この男に変化が起こります、心の目覚め、いや彼の全身の甦りが起こるのです。「私はこの方に受け容れられているのだ。認められているのだ」。目と目が合い、心と心が響き合いました。その瞬間、彼の一番大切な感性、信ずる心、いや生命力といった方がよい、その生命力が甦るのです。「本当に立てるのか」?一瞬の迷い、しかし次の瞬間彼はこの言葉をそっくり受け止めていました。受け止めることが出来た。感応する心、人を信ずる心が蘇ったのです。「あっ立てた」!イエスのこの言葉に出会った時、この男は三十八年間しまい続けていた自分を見いだし、その自分を開くことが出来たのです。自分が決して一人ぽっちではない、空っぽではないことをパッと知るのです。この男の生は一変します。このことこそが奇蹟ならざる(を越えた)奇蹟です。
この男は再びイエスに会います。今度はイエスをイエスと認めてです。そしてイエスの言葉、「ほら、治ったではないか。もう二度と罪を犯すなよ」。これも「罪を犯すなよ」ではなく、彼には「罪を犯すことはもうないんだよ」と聞こえてくる。
この男がその後どうしたか、私どもは知りません。この生きた言葉の重みを、この男は生涯かけて受け入れていったのではないでしょうか。
病と罪とを当時の人々は結び付けていましたし、イエスの言葉も、この物語もそれを前提としているのでしょう。そうだとすれば、一つ言えることがあるように私は思うのです。それは、イエスがこう言われたとき、彼は黙ってこの男のすべての穢れ、病いも罪もこの男と共に背負い、いや代わって負われたのではないか、ということ。イエスもこの時一歩彼の人生の新しい道(エルサレムへの道、十字架への道)に踏み込んだのではないか。そしてその分だけ彼は死に近付き、とき来たって十字架に死なれるのです。この記事ではユダヤ人たちは神様気取りとしてイエスを殺そうと狙うようになった、と書いてあります。安息日のことでしたから。
罪の値は死、イエスの十字架の死は人の罪を負っての(罪を代わって贖(あがな)われての)死だったという。これ以上ない凄惨な十字架の死。死は全ての生けるものから一度完全に断ち切られることです。ところが、ここのところで聖書、福音書の一番後(おわり)のところが語っていること、それは全く思いがけないことでした。このイエスが甦えられたというのです。それは、罪を負ったとしか言い様のない死を遂げたイエスを、神は一度「お見捨てになって」(罪(死)を負わせ)、その上で、しかしお捨てになったのではなく、御前にお受入れになったのだということでしょうか。一度確かに断ち切られた彼を囲む人々との生ける関わり。その後、日ならずして思いがけないことが起こった。生前の交わり、関わりと比較にならない、肉体にも煩わされない深く密度の濃い人格的関わりが、生前のイエスに心から従っていて、今は悲しみのどん底にあるマグダラのマリアたち、そして一度イエスを裏切った、その意味で人間として死んだペトロなど弟子たちとイエスとの間に生まれたというのです。イエスが彼らに顕現され復活されたとは、そういうことでしょう。そこからキリスト教会は始まったのでした。
ひょっとしたらこの男も一歩踏み込んで、イエスが負って下さっただけそれだけ、新しい自分の生に目覚め、生き始める。そしていつの日かイエスの心のすべてをそのまま分かって受け止める時がきたのではないか。イエスもこの男も一歩踏み込む、ここにイエスにもこの男にも新しい生の展開があったのではないでしょうか。
女子学院には、学院としてこのことだけは何としても受け止めてほしいと思っておられることがあるのではありませんか。それは何ですか。今のこの時、卒業間近かの方々は勿論、ほかの皆さんも、そのことに思いをいたし、そのことを思い起こしてください。2004年度の女子学院の標語は、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)ですね。命の源であるイエス・キリストにつながっていることの大切さを教えていますが、それは同時に私たちが自分自身を100パーセント開花させ、真に意味のある人生を生きるためには、しっかりした心の拠りどころを持つことがどんなに大切であるかを教えてくれるものです、との言葉が続いています。
「女子学院のこころ」という言葉が許されるなら、それは何でしょうか。突き詰めると「イエスのこころ」に行き着くのではありませんか。今朝もこのイエスの心に触れるところを学ぼうと試みて参りました。イエス・キリストにつながっていることの大切さ。そして同時に自分自身を100%開花させ、真に意味ある人生を生きるために、しっかりした心の拠りどころを持つことの大切さ。
今の私どもを囲む世界、余りにも問題に満ちています。そこに皆さんは足を踏み入れるのです。友と共に、しかしたった一人になってもしっかりした心の拠り所を持って真理を守り抜くものになりたい。Noというべき時にはっきりNoと言おうではありませんか。
私の礼拝奨励を終わります。
一言祈ります。我らの主、イエス・キリストの父なる神様、皆で卒業礼拝の時を持ちました。どうぞ次のステップを踏み出そうとしている若き人々を導き、お護りください。この乱れに乱れた世。そんな有り様だからこそ、この女子学院にお与えくださった役割を皆で力を合わせて果たすことが出来ますように。「女子学院のこころ」を、一人一人のこれからの歩みの中で生かすことが出来ますように。今までのお支えを感謝申し上げると共に今後ともお支えくださいますよう、お願い申し上げます。女子学院に関わる全ての者に、神様の祝福が有りますように。何よりも世界の苦しめる人々のために主のご加護をお願い申し上げます。主の御名によりて、アーメン。