中1レシテーションコンテスト
2月14日のLHRでは、レシテーション《暗唱》コンテストが行われ、各クラスの予選で選ばれた15名が出場しました。2ヶ月近くかけて準備したレシテーションはどれも素晴らしく、大きなスクリーンで絵本の絵を見ながら、“Frog and Toad”《がま君とかえる君》のお話を皆で楽しむことができました。また、海外在住経験のある生徒が自分の体験を英語でスピーチし、学年全員が英語の歌で参加しました。この一年の英語の学びの成果が感じられるコンテストでした。
高3の生徒による礼拝
卒業を目前にした高校三年生が、1月17日から31日まで9回にわたり、中・高の礼拝で話をしました。中・高6年間の中で、礼拝や授業、生徒会活動やクラブ活動を通して感じた様々な思いを語りました。
高3 生徒礼拝
この女子学院での六年間を通じて、何よりも「書く」という作業が多かったように思います。講演会等の行事の度に感想文を書くことになったり、理科系の授業でさえ実験の度に真っ白な紙を手渡されたりで、それを文字で埋めるのに私は、毎回四苦八苦していました。
しかし、私が最も苦手としていたのは国語の自由作文と礼拝ノートでした。実験のレポート等では、何を書けばいいのかがあらかじめ提示されていたので、わたしはそれに沿って文字を書いていけばよかったのですが、「自由に、自分の感じたことを」と言われてしまうと、とても自分が何について書けばよいのかが判らなくなってしまったものでした。また、礼拝ノートの場合、クラスの皆の前でそれをよまなくてはならない、と思うと自分の感じた事を素直に書き表すのは私にとってとても勇気の要る作業でした。
私はそのようにいつも礼拝当番になると苦心してやっとノートを書いていましたが、周りの友人はさすがに高三にもなると手馴れたもので、聞いていてとても興味深い内容の礼拝が多い中、自分の礼拝当番が近づくのがとても憂鬱でした。
そんな折に、私のHR礼拝で当たった聖書の箇所は、有名なイエスの復活の場面でした。イエスが復活したことを天使から告げられたマリア達が信じて受け入れた場面です。
私は昔からこの場面に何かトリックめいたものは無いのかと一人悶々としていました。死んだ人が生き返る、何故そんなことが起こっているのだろうと。ですが、最近はこの場面に要るのはトリックではなく生前のイエスの言葉、天使の言葉を受け入れるかどうかで違うのではないかと思い始めてきました。
旧約聖書の冒頭にある天地創造では、神が言った言葉の通りに世界が創られています。これは、神の言葉を大地が、世界が受け入れて、聖書を読んだ人もそれを受け入れたから成ったのではないかと思うのです。
聖書を読むと度々「言葉」の重みを感じることがあります。私は元々「言葉」に対する感覚が鈍いせいか、話を深く読むのが苦手ですが、今回は自分なりに「言葉」について考えて見たいと思います。
「言葉」の意味に「言霊」という単語があります。「言霊」――ことばに宿っている不思議な力のことを言うそうです。古の時代の人々はその力が働いて言葉どおりの事象働くと信じていました。その形が陰陽の術や呪術であったのでしょう。
今日の聖書の箇所でイエスの言っている力も、この言霊に通ずる所があります。言った事が正にその通りになる、これはどうして起こりえるのでしょうか?
イエスは、「信仰さえあれば何事も本当になる」と言っているように見えます。私にとっては昔からこの辺りがどうもよく判らなかったのですが、今回、「信仰」という事柄を軸に置いてよく考えてみようと思います。
そもそも何故、聖書の中では不思議なことが起こるのでしょうか。イエスが予言したことは、その先で必ず現実になっています。仮に私が今、何かを予言したとして、内容にもよりますがそれが奇跡のように起こることはまず無いでしょう。聖書の中とこの現実との違いはどこにあるのでしょう。
聖書の中に出てくるのは(とりあえずここでは福音書の中の事で考えると)、イエスと、それを信じる人々です。何故、書物の中で本当に起こったのかと言えば、それはイエスが宣言をして、人々がそれを信じたからに他なりません。そして、こうなると最早、出来事の真否、つまり現実にそれが起こったのか否かということは二の次になるのです。「信じる」ということによってこの人々の間に起こったこと、語られたことは全て真実になったのだから。
今、私に決定的に無いものはこれなのかも知れません。聖書の中の人々にとっては真実でも、それを信じて受け入れることの出来なかった私にとっては、何らかのトリックか、はたまたフィクションにしか感じられなかったのでしょう。勿論、科学が発達した今、物理的にものを見る見方は必要です。しかしやはり、私と聖書のなかの人々との違いは、この「信じる」という思いのあるなしから来ていたのでしょう。そして、人々の心の中にある、信じる心を表すものの一つに、信仰という言葉があるのだろうと私は思います。
この聖書にして半ページ分、たった七節分の意味を自分なりに見出すまでに、私は六年間も費やしてしまっています。不器用で効率のいいやり方が何一つ出来ない私らしいといえばその通りなのですが、今回、この箇所をじっくりと考察する機会が与えられたことをとてもうれしく思っています。恐らく六年前、最初に読んだ時は、「何だかよく判らないがイエスという人が奇跡を起こしている」というぐらいにしか思えず、イエスの話すたとえ話に至っては解説書を鵜呑みにする事しかできませんでしたが、今、聖書の一節を読む度に様様な思いが頭の中を巡ります。それは、聖書のなかの一単語から派生していった連想だったり、以前の自分の姿だったりします。昔には考えられなかった聖書との付き合い方を今の私はしているのかもしれません。
この学校に入学してから事あるごとに先生方から「聖書は一生のお友達よ」と言われてきましたが、その言葉をいぶかしんでいた以前から今に至るとは想像もできません。
聖書に限らず、本というものは一生の友人になれるものがとても多いと思います。特に、一見とっつきにくそうな難しい文体で書かれた書物ほど、読む度に違った印象を私達にあたえます。この頃になってようやっとそれに気がついた私は、今更のように家で埃をかぶっていた本に手をのばしています。
大分個人的なことばかりを話してしまいましたが、元々私が考えていたことは「言葉の力」についてでした。聖書や本の中にはこの力が満ち満ちています。私達はその力を受け、様様な感情を抱いているのでしょう。言い表し方を変えると、私達は聖書や本を読んでいるときには、どこか共通の空間に思考を飛ばすのかもしれません。そこは聖書の執筆者が見せたい世界であり、物語の作者が創り上げた世界です。そこでは言葉が全てを支配し、私達はその恩恵を享受した上で個々の思いを発生させているのかも知れません。
しかし現実に、他人と共通の空間に今いるのだと感じることはかなり難しいのだと思います。仮に今、私とある人が何か予言のような現実的には無さそうな事柄を約束して、二人の間ではその事が成った、とします。その場合、この二人の間には共通の信仰が無いとこのことは成り立ちません。現代においてその可能性は高くないでしょう。だから「奇跡」と人が言うようなこともあまり無いのかもしれません。
しかし、宗教というものはその共通の世界をいとも簡単に見出しているような気がします。私からは、信じて入る人々は、何か別の世界を持っているように見えます。それは私から遠くに見えるというのではなく、心の中に世界を創って、それを耕しているように見えるのです。人は、心の中にたくさんの世界を持っています。そういう人達はその中に「信仰」のせかいがあるのかも知れません。
「あなた方に出来ないことは何も無い。」
今日の聖書の箇所で、イエスが最後に言った言葉です。最初に何の意味も考えずにこの一節を読んだ時でさえ、私は何故だかとても高揚した気分になりました。それはこの言葉の持つ力によって私にもたらされたものなのでしょうが、意味を考えてみると、さらに自分の内に力が湧いてくるような気がしてきます。
信じていれば(この場合は特に信仰のことを指していますが)、あなたに出来ないことは何一つ無いのだと言われたように思えるからです。時によって、信じるものは神であったり、友人であったり、自分自身であったりします。そしてそれぞれを「信仰」、「信頼」、「自信」と言うのだと思います。
私はこの信じる、という作業が苦手でした。信じようと思っていながらも心のどこかで不安を抱くことが多いです。ですがそれでも、私は信じたいと思います。信じることによって、自分の未来への可能性は広がると、思うのです。
高1・卒業生の話を聞く会
高校1年生に向けて、毎年この時期に行われている「卒業生の話を聞く会」が、1月18日(木)LHRで行われました。今年は、1981年卒業の渡邉知子さん(弁理士)と1998年卒業の野口由希さん(株式会社・電通勤務)の話を聞きました。ご紹介します。
女子学院「高1卒業生の話を聞く会」における講演内容(概略)
現在弁理士として仕事をしていますが、そもそも知的財産権、弁理士という職業が皆さんに馴染みのないものだと思いますので、初めにそれらについて説明したいと思います。
(1) 知的財産権とはどのような権利か
著作権は皆さんもご存じだと思います。音楽、映画、小説、絵画、写真などに発生している権利です。著作権も知的財産権の1つです。「映画の著作権が切れたからDVDが安くなった」、以前「ローマの休日」でそのような報道がされましたが、著作権には権利期間があります。創作者の死後50年(企業著作は公表から50年)が権利期間です。期間内は創作者などに著作権料が支払われますが、期間を過ぎると支払う必要が無くなり、安くなるわけです。
著作権の他にも、発明・考案を保護する特許・実用新案、デザインを保護する意匠、ブランドの名前やマークを保護する商標などがあり、これらを総称して知的財産権と言います。
(2) 弁理士の仕事
弁理士は、簡単に言うと知的財産権を扱う弁護士のようなものです。特許、意匠、商標、実用新案は特許庁へ出願しないと取得できない権利なので、企業(出願人)に代わりその出願の代理をします。登録されると権利の管理、その権利を他者に侵害された場合は相手との交渉、裁判を代理することもあります。
キティちゃんを例に取ると、例えばキティちゃんを付けたトースターを電機メーカーが販売する場合、電機メーカーは著作権を所有するサンリオからライセンスを受けることになります。この様なとき企業の代理として交渉したりライセンス契約書を作成したりします。権利がビジネスと深く結びついています。
(3) 弁理士になるまで
高校卒業後、大学ではデザインを勉強しました。大学時代はデザイナーになろうと考えていましたが、デザイン事務所でアルバイトをした際に自分がデザイナーに向いていないと感じていたところ、特許庁の意匠審査官募集を知り、受験して特許庁へ入庁しました。国家公務員のI種です。特許庁では意匠(デザイン)の審査、意匠行政に携わりました。今考えると多くのデザインにふれ、組織の中で働く良い経験ができました。そして特許庁で約11年働いた後、国家試験を受けずに弁理士資格を取得して弁理士になりました。
(4) 現在の仕事
弁理士は通常、国家試験を受けて弁理士になります(約84%)。その他には私のような特許庁有資格者(10%弱)がいます。女性比率は未だ少なく、弁理士数約6800人のうち11%にすぎません。
私は大学、特許庁での経験を踏まえ、デザインに関する知的財産権を専門にしています。そのような弁理士は非常に少なく、弁理士の多くは特許を専門にしています。デザインが専門なので、クライアントの中には有名デザイナーもいます。例えばデザイナーが企業からデザインを委託された場合、デザイナーに代わって企業と契約交渉をします。クライアントが企業の場合は企業内のデザイナーと深く関わって仕事をしています。
私の今までの経験から皆さんに参考にしていただけることがあれば、「前例は気にしない」ということです。私の場合を振り返ると、同様の経歴を辿った人は先輩も後輩もいません。今将来の目標が見えなかったとしても気にすることはないと思います。自分に興味のあること、自分にできることからやってみては如何でしょう。自ずと道は開けていくと思います。仕事はもちろんいいことばかりではなく、いやなことも多くあります。しかし続けていると得るものも大きいです。特に人との関係は仕事により大きく拡がり、いろいろな人との関係が自分を成長させてくれると思っています。
あと、女性が社会で働く上で何か不利なことはないか、と気にされている人がいるかもしれませんが、私の場合で言えば特許庁でも弁理士の今もそのようなことはありませんでした。むしろ女性は少ないので覚えてもらいやすいし、ジュエリーのような商品であれば、クライアントからは女性の方が商品をわかってもらえると喜ばれます。仕事相手の海外の弁護士や弁理士は、先進国に限らず、後進国でも女性が多く、日本はまだ遅れているのを感じます。
今日の話が少しでも皆さんの参考になれば幸いです。
中3クラス劇実施
1月27日(土)、9:20~14:50、講堂にて行われました中3のクラス劇の様子を画像で紹介します。
高2パイプオルガン発表会
Aさんの感想
「講堂のパイプオルガンに一度は触っておこうとこの授業を選択したのが一年前。今まで楽器を習ってきてはいても音楽的知識の乏しい私には、楽譜の解説書も半ば暗号文でした。ただその中に時に自分にも分かる表現を見つけて、それをどうオルガンで表現しようかと次の授業日まであれこれ考えるのが楽しく、また授業中先生が『ここはこう…』と表現して下さったものがしっくり来た時もやはり楽しかった。」
Bさんの感想
「バランスよく選択しようと思って、オルガンを選択しましたが、オルガンそのものも、バランス感覚の必要な楽器でとても楽しめました。またオルガンを弾いていると、オルガン的発想のようなものを得る事が出来て、視野が広がった気がします。」