高校卒業式
3月18日高校卒業式が行われ、228名の卒業生を送り出しました。
卒業式の来賓祝辞としてお招きした、東大・大学院総合文化研究科教授の大貫 隆先生の祝辞を紹介します。
第58回 女子学院高等学校卒業証書授与式 来賓祝辞(2006.3.18土)
真の知性、真の勇気
卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。保護者の皆様、お嬢様方のご卒業おめでとうございます。先ほど、院長の田中先生からご紹介いただいた大貫でございます。
本日、この晴れがましい席で、若い皆さんにどのようなはなむけの言葉を語ったらよいか、いろいろ思いめぐらしました。その中で、ふと或る一人の若い女性のことを思い出しました。その女性は結婚して、お腹に赤ちゃんができて、もうじき初めての出産を迎えようとしていました。でも、心配なことが次々と心の中に湧いてきます。まだ自分が妊娠していると気づく前のあの日あの時、あんなに重い荷物を持ち上げて、腰に負担をかけてしまった。また、別のあの日あの時には、やはりそうとは知らないで、レントゲン写真を受けてしまった。また別のあの日あの時には、風邪気味で、手近にあった売薬の風邪薬を軽い気持ちで飲んでしまった。大丈夫だろうか。産まれてくる赤ちゃんに悪い影響はないだろうか。子を産む性である女性にとって、このような心配がどれほど重いものであるか、男である私には本当のところは分かりません。その女性にとっては、眠れない夜がいくつもあったそうです。
しかし、時が満ちて、お腹の赤ちゃんは無事、元気な産声を挙げて産まれてきました。その若い母親の安心と喜びはどれほどであったことか、と誰しも想像するはずです。ところが意外なことに、その母親は産室のベッドの上で、助産婦さんが連れてきてくれたわが子を傍らに見ながら、涙が止まらなかったそうです。それは嬉し涙ではありませんでした。急に「いつか必ずこの子と別れる時が来る」ことが思われて、たまらなく悲しかった。それが涙の理由でした。
ここでは一体何が起きているのでしょうか。産まれてきた赤ちゃんは、自分に何が起きているのか分かりません。赤ちゃんは、「僕、産まれたい」と考えて、産まれてきたのではありません。むしろ、まさに「産まれた」(受け身形)のです。「産まれた」という事実に間違いはありません。しかし、赤ちゃんはそれを経験していません。
人間は皆そうです。私たちは誰も自分が産まれた(生まれた)時のことを覚えていないのです。そのために、だんだん成長して、物心がついて、自分が生きているということを意識するようになっても、生きていること(いのち)は当たり前だと思って私たちは日常の生活を続けます。
しかし、人の一生には、そのような当たり前、そのような日常が、不意に破れて、あるいは「切断」されて、「宙づり」になる瞬間が必ず訪れます。いつどのような場面でそうなるかは、人の一生がすべて異なるように、人によって違います。それはあらかじめ計算できない事件だからです。先ほどの若い母親の場合には、さまざまな心配の末に元気に産まれた新しいいのちを自分の傍らに抱いたときがその瞬間でした。その母親は、そのとき初めて、「いのち」というものが - それまで「当たり前」と思ってきた自分の「いのち」も含めて - 決して「当たり前」ではないこと、言わば「与えられたもの」(受け身!)であることを経験したのです。
「与えられたもの」としての「いのち」。それは少し難しい表現をさせていただくと、「いのち」の「超越性」ということと同じです。易しく言えば、「いのち」は人間の勝手な思い込みを「超えるもの」なのです。
その点で興味深いのは、イエスと新約聖書の言葉遣いです。イエスと新約聖書には「いのち」に当たることばが二つあります。新約聖書はギリシア語で書かれていますので、ギリシア語で言いますと、その一つは「プシュケー」という言葉です。「プシュケー」は心理学を意味する英語Psychologyの最初の2音節「サイコ」(ローマ字読みでは「プシュコ」)の語源です。「魂」の意味にもなりますが、新約聖書では、人間だれもが衣食住によって今現に生きている「いのち」を指します。
マタイ6,25「だから、言っておく。自分のいのちのことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。いのちは食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(ルカ一二22-23も参照)
マルコ8,38「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか。自分のいのちを買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
おそらくどちらの言葉も、皆さんはこれまでの学園生活で何度も読んできたことでしょう。これらの言葉での「いのち」は「プシュケー」、私たちが今現に衣食住によって生きている「いのち」を指しています。
さて、「いのち」を意味するもう一つのギリシア語は「ゾーエー」と言います。英語で動物園のことをZoo「ズー」(ローマ字読みでは「ゾオー」)と言いますね。その語源です。
マタイ7,13-14「(13)狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。14しかし、いのちに通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マルコ9,43-47「(43)もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になってもいのちに与る方がよい。(45)もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になってもいのちに与る方がよい。(47)もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」
これらの言葉もまた、皆さんはすでに何度も聞いてきたことでしょう。しかし、こちらの「いのち」(ゾーエー)は人間が今現に生きている「いのち」ではなく、まだこれからそこへと入ってゆかなければならない「いのち」であることに注意してください。「いのちに通じる門は狭い」のです。その「いのちに与る」ことが二度繰り返された後、最後の三番目には、「神の国に入る」こと言い換えられています。新約聖書はこの「いのち」(ゾーエー)のことを「永遠のいのち」とも呼んでいます。
そのように「いのち」を指す言葉は二つあります。しかし、最も重要なことは、その二つの「いのち」が、今ある「いのち」とこれから与えられる「いのち」というように、決して別々のものではないことです。二つの単語は実は相互に交代が可能なのです。そのもっとも良い例は、ヨハネ12,25です。
「自分のいのち(プシュケー)に愛着する者は、それを滅ぼし、この世で自分のいのち(プシュケー)を憎む者は、それを保って永遠のいのち(ゾーエー)に至るであろう。」
二つの「いのち」- プシュケーとゾーエー - は実は同じ一つの「いのち」なのです。今現に私たちが毎日、衣食住によって生きている「いのち」(プシュケー)が「永遠のいのち(ゾーエー)」に連続している。それがイエスと新約聖書の見方です。
「永遠のいのち(ゾーエー)」は「日々のいのち」(プシュケー)としてすでにそこにある。それは「日々のいのち」と別のものではない。しかし、その「日々のいのち」は、なおこれから来る「いのち」、なおこれから与えられる超越的な「いのち」(ゾーエー)として、新しく発見され直されなくてはならない。私が最初に紹介した若い母親の涙は、その発見の瞬間に流れた涙なのです。
私たちは誰もが親から生まれ、今ある「いのち」を与えられました。しかし、その出来事を私たちの誰一人、その時その場で経験していません。それどころか、全く覚えておりません。それはむしろ、その後のそれぞれの人生の日常性が破れ、宙づりとなるような瞬間に、繰り返し、繰り返し経験される仕方で初めて、本当の経験になってゆきます。人間は自分の「いのち」の真の意味を「遅れて」初めて経験するのです。「子を持って知る親の恩」という古くからの諺は、そのことを実によく言い表しています。真の「いのち」の経験は「遅れて」やってきます。「遅れて初めて真に経験される「いのち」は、初めからそこになければならない。そうでなければ、それは「遅れて」経験され得ない。それはすでにそこにある「いのち」と同じものです。イエスが宣べ伝えた「神の国」も、究極的には、そのことを指し示していたのだと私は思っております。
皆さんの多くは、これから大学へゆくでしょう。もちろん、別の道を行くひともいるかも知れません。それぞれの道で、それぞれの能力を思い切り発揮して生きてください。その結果、何事かを為し遂げて、世の中から認められ、人々の賞賛を受けることもあるはずです。しかし、その時、有頂天になりすぎないでください。自分の手柄(成功)から距離を取って、それを客観的に眺める、あるいはもっと言えば、それを忘れることのできるもう一人の自分を持つことが大事です。イエスはそのことをこういう言葉で言い表しています。
マタ6,2-3「自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。施し(神と人に褒められるはずの善)をするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」
マタ25,31-40にある最後の審判についての話でも同じです。裁き主である王は羊を山羊から分けて、
「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに尋ねてくれたからだ。」すると、正しい人たちが王に答える、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたでしょうか。」
羊たちは自分のした善き行いを忘れているのです。
どうすれば、そのようになれるのでしょうか。私が今この年になって思い当たるのは、どんな手柄も成功も「いのち」の超越性、絶対性、かけがえのなさに比べたら、何の事はないということ気づくことです。自分の成功を嗤い、忘れる能力が必要です。それこそ真の知性です。知性とは英語でintelligenceと言います。この英語の語源はラテン語ですが、「間(距離)を取る/読む」という意味です。どうか真の知性を備えた女性になってください。
みなさんがそれぞれこれらから行く道には、成功の反対、つまり、世の中で為すべきこととされていることを為し損ね、人から蔑みのまなざしで見られて、肩身の狭い思いをすることも必ずあります。その時は反対に、めげ過ぎないでください。自分を嫌悪し過ぎないことが大切です。自分の失敗から距離を取って、失敗した自分を嗤うこと、あるいは、忘れることのできるもう一人の自分を持つことが大切です。そのためには、その失敗よりも先に、「いのち」がすでにそこに在ることを思い出せばよいのです。「いのち」のかけがえのなさに比べたら、目の前の失敗も何の事はないのです。そう考えることのできる能力、それこそが真の勇気です。
どうぞ、真の知性と真の勇気のある大人になってください。私にできる精一杯のはなむけの言葉です。
高3修学旅行
4月10日~14日(前班)4月11日~15日(後班)の日程で高3修学旅行が行われました。旅行日誌(抜粋)から旅程を紹介します。
高3修学旅行~旅行日誌より~
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