「JGに学んで」

女子学院では、卒業を控えた高校3年生が、年が明けた頃に講堂礼拝で『JGに学んで』というタイトルで後輩たちにメッセージを伝えてくれます。先輩の言葉に後輩たちは熱心に耳を傾けます。昨年度のお話の中から紹介します。

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙 5章13節~14節

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。

ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句に全うされるからです。

 

女子学院に学んで、という題で礼拝をお願いされたとき、いったい何を話せばいいのか見当がつきませんでした。そこで一度六年間を振り返ってみようと思い、なにげなくとっておいた今まで取り組んだ提出物にざっと目を通したのですが、我ながら今までこんなにたくさんの課題に取り組んできたのだなあと感心してしまいました。

数学の宿題で折り紙の正二十面体を作ってみたり、地理では十和田湖の地形図にひたすら色を塗ったり、理科Ⅱ分野では1か月間の天候・気圧の変化を毎日折れ線グラフに示したり、中3のボランティア活動では友人と老人ホームでマンドリン合奏を披露したり、生物の宿題でDNAを抽出したり、家庭科では出納簿をつけたり…などなど。こう挙げてみるとあんなこともこんなこともしたのだな、と懐かしく思います。

様々な課題の中で一番印象的でやりがいがあったのは、中3の夏休みの公民の宿題だった裁判の傍聴です。もともと刑事物の小説が好きだった私は事件の捜査や犯人の逮捕に興味があっても、逮捕後の流れにはあまり注意を払っていませんでした。そのため誰でも裁判を傍聴できること自体が私にとって新鮮で、夏休みは何度も裁判所に通いました。無賃乗車をしたホームレス、風俗店で暴行をした元暴力団員、女性宅に侵入した後逃走したサラリーマン、子どもを車で轢いてしまった老人など、いくつかの裁判を傍聴し、事件や被告の生活状況、その家族、被害者の思いなどを身近に感じることができました。それ以降、世間を騒がす事件があった後もその裁判や判決をニュースで確認するようになり、その判決に対し、自分なりの意見を持つようになりました。この裁判傍聴体験は司法制度が整う国で生活する一人としての意識を確立するきっかけとなりました。

 

このように多くの課題に主体的に取り組むなかで色々な分野の知識を身に着け、考えを深める機会が多く与えられてきたのだと実感しました。また女子学院で文系理系の枠に捉われない幅広い学びを享受するうちに、一つの選択をしても、そこから様々な可能性が広がっていることに気づくことができました。医療に携わりたくて理系を選択した一方、数学が苦手、むしろ文系科目の方が好きだった私は、この選択で大丈夫なのか不安になることもありましたが、今は目の前に広がる様々な可能性に圧倒されるほどであり、また新たな一歩を踏み出すのが楽しみでもあります。高3修養会のオリエンテーションの最後に中学の担任だった先生がお話ししてくださった言葉の中に次のようなものがありました。「1mから1cmを切り取ってもその1cmには1mm、1mmには1㎛と目盛りがあるように、ある選択をしても選択肢は無限にあります」。この言葉に表される姿勢、すなわち選択肢を自ら狭めるのではなく、常にアンテナを張り続けて選択肢をひろげようとする姿勢を女子学院で学ぶことができたと考えています。また女子学院で得た様々な知識、経験は選択肢から一つを決めるときの材料となるはずです。

 

今日の聖書箇所は私の高3のHR礼拝で与えられた聖句ですが、ここで出てくる「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」というのは、主体的に自由を求める姿勢を私たちに要求しているのだと思います。女子学院は自由だ、と何度も耳にしてきました。この自由はなにかしらのしがらみ、例えば表面上の利益や名声に捕らわれ制限されていることを知っていて、だからこそ自由であろうと努力する人こそが本当の意味で自由な人である。これは高2の現代文の授業で読んだ丸山真男の評論の中で出てきた考えですが、私たちに求められ学ぼうとしてきた自由とはまさにこのことだと思います。先程挙げた選択肢の決定も、自分自身に様々な選択肢があるのにも関わらず、自ら知らぬ間にそれを制限していることに気づき、視野を広げようと努力することが大切なのだと思うに至りました。

 

今日選んだ聖句「隣人を自分のように愛しなさい」は、黄金律の一つに数えられるほどポピュラーでキリスト教を知らない人でも一度は耳にしたことがあるものだと思います。私の一番好きな聖書箇所はどこか、と聞かれたらありきたりではありますがこの聖句を挙げます。

女子学院での毎日の礼拝、聖書を通して一人の人間としての正しい在り方、他者への奉仕の精神について日々触れていくなかで絶対的に正しいことの存在を学びました。現在の世界で私たちはなにかと自国中心主義だったり、テロリズムがはびこったりと、全人間に共通する絶対的な善が喪失して相対主義化していく様を目のあたりにしてきました。人を殺してはいけないといっても戦場ではどうでしょうか。人々が自分の利益だけを追い求め突っ走っていったらどうなるでしょうか。相対化するこの世界のなかで、聖書に毎日触れてきたというのは大きなことだと思います。中学生のときは眠いこともあった礼拝ですが、高校3年の授業が終わった今、礼拝の15分間を持てないこと、朝のオルガンを聞けないこと、讃美歌を歌えないことを寂しく思います。この6年間毎日開いてきた聖書の言葉は知らぬ間に私の中に息づいているはずです。友人が以前礼拝で「聖書は人間の闇を暴くが、同時に優しく包み込んでくれる存在だ」と話していました。聖書では富は地上じゃなくて天に積め、だとか、敵を愛せ、だったりと、なかなか厳しいことを言っている一方、どんな人でも神は愛していると言われます。聖書や礼拝で言われる「悪い人間の例」にことごとく当てはまり、何となくしゅんとすることも多かった私ですが、それでも愛されているよと言われるのは心強くもありました。

「隣人を自分のように愛しなさい」。自分をまともに愛せているのかも分からないのに、他人を愛せと言われても…と反論したくもなります。でもこの聖句が好きなのは、人としての在り方を示してくれているからだと思います。たとえ隣人を自分のように愛せなくても、隣人を憎み、敵対することがあっても、たとえそれが人の性だとしても、隣人を愛そうと努力する。そう意識させてくれるのがこの聖句です。

私はこれから医師としての道を進みます。まさに人間そのものといえる医学を学ぶにあたって、人間の在り方をこの学校で学べたのはとても大きなことでした。医師として働くうえでは「隣人を自分のように愛しなさい」という聖句を手の届かない存在にするのではなく、進んで実践する人間にならなければなりません。今後の人生でふと自分自身を振り返るとき、隣人を愛せていたか、愛そうとしたか、自分を見つめて思い返していきたいと強く思うようになりました。

みなさんも自分の軸となりうる聖句をひとつ決めてみてください。それが自分を支え、力強く鼓舞してくれる日がいつか訪れることと思います。

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