礼拝を紹介します
2月18日(金)の講堂礼拝を宗教委員の生徒が担当しました。
高校1年生の生徒の礼拝を紹介します。
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章10節
「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
皆さんは毎朝の礼拝で何かを得たり、学んだりした経験はあるでしょうか。今日は私達女子学院生にとって、切っても切り離せない礼拝についてお話をしようと思います。
多くの人は、女子学院に入学して初めてキリスト教、そして礼拝というものに触れていると思います。私も同様に、礼拝は女子学院に入学して初めて経験しました。始めの頃は礼拝の持つおごそかで特有の雰囲気に圧倒されて、礼拝に対して少し怖さを感じていました。しかし、いつの間にか毎朝礼拝を守ることが当たり前になり、礼拝に対して何の違和感も感じなくなりました。礼拝を守る際に、心の余裕ができてからは知らなかった聖書箇所や讃美歌との出会いを味わうことができるようになりました。そして朝の十五分という限られた短い時間の中で先生方が話してくださるお話は、私の女子学院での学校生活をより豊かなものにしているのだと感じます。先生方が礼拝で紹介して下さらなければ知ることのなかったであろう人物や言葉との出会いは時に私の考えを改めさせてくれました。友人と考えが合わずに険悪な雰囲気になっている時に礼拝を聞いて自分にとっての正しさだけではなく相手にとっての正しさを考える事の大切さを学び、もう一度お互いに向き合って話をするきっかけを得ることができました。その他にも悩んでいたり困難な事にぶつかった時に心を慰めてくれたり励ましてくれるようなお話は数多くありました。
また、礼拝の最後に私達は必ずお祈りをします。祈りというのは幼い頃から身近な所にある存在でしたが、それは神様との対話ではなくただ自己中心的になっていた神頼みのような物でした。中でも印象的な祈りはある先生の祈りです。HR礼拝で同級生も同じような事を挙げていましたが、先生の祈りは必ず新しい朝を迎えられた事と共に祈る仲間の存在に感謝して始まります。そして最後には女子学院に連なる全ての人達へも祈ります。私にとって新しい朝を迎えること、学校に来て友人と会う事は当たり前で特に気に留める事ではなく感謝することはありませんでしたが、先生の祈りによってどんな些細な事に対しても感謝する事の大切さに気づくことができました。
これまで数多くの礼拝を守りましたが、心に残っている聖書箇所はコリントの信徒への手紙Ⅱ 12章10節の「わたしは弱いときにこそ強い」というものです。初めてこの聖書箇所と出会った時は意味がよく分かりませんでした。弱いのに強いなんてありえないと思ったからです。しかしそのように浅はかな私の考えは次第に変わっていきました。強い方と弱い方どちらかを選んで良いとしたら大半の人が強い方を選ぶのではないでしょうか。そしてもっと強くなろうとする人も多いのではないでしょうか。自分の弱さについて調べていたら、多くの格言に出会いました。その中でも多くは、自分の弱さを認めて初めて何かができるという内容でした。しかし私はそのような考え方にあまり共感することが出来ず、自分の弱さ、人の弱さとは何かが分からなくなってしまいました。そんな中で自分の弱さを知ることこそが強いというこの聖書の言葉がありました。私はその言葉に感銘というよりも衝撃を受けました。その言葉はその時の私にとって一番必要な言葉だったからです。部活動で幹部交代をし、後輩をまとめていく立場になった時、私は自分に足りないもの、欠けているものを次々と突きつけられていました。しかしそのような事には一切目を向けず、無理にでも前に進もうとしていました。まさにその時の私は自分の弱さから目を背けて強くなろうとしていたのです。自分自身と向き合うことを疎かにして前に進む事の愚かさをこの言葉は気づかせてくれたと同時に、弱さと向き合う機会を与えてくれました。それでもやはり、自分の弱さと真正面から向き合うのは怖かったのですが、この聖書箇所からどんな時でも神様は私達の事を見守り、導いて下さるという事を学び、自分の強くない面について考える事が可能になりました。
最後に、毎朝十五分という短い時間の礼拝ではありますが、礼拝から何かを得ようとすれば、得られるものは必ずあり、そうでなくても思いがけず出会う言葉もあるのだと思います。礼拝という貴重な機会を新しい朝と皆で守れる事に感謝しながらこれからも大切にしていきたいと思います。