春の修養会報告礼拝を紹介します

322日〜24日、「No learning, No life」をテーマに、マタイによる福音書912節〜13節を主題聖句として春の修養会が行われました。参加した生徒の報告礼拝(中学二年生・高校三年生)を紹介します。

<修養会主題聖句>

マタイによる福音書912節〜13

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

516日礼拝(中学二年生)>

女子学院に入学して一年も経っていなかったのに、私は何をやっても自分よりもできるクラスメイトたちに圧倒されて、「学ぶ」ということから目を逸らしていたのかも知れない。

「学ぶ」ということは、更に知識をつけるということ、つまり、身の回りを更に知ることに繋がる。それが私を苦しませた。「できない」という壁。気がついたら「学び」と「勉強」の違いが分からなくなっていて、小学生のときまで好きだった「学ぶ」ことにすら消極的になっていた。

そんな中で決まった、修養会のテーマ。正直、「学ぶ」ことを避けていた私にはきついテーマだった。きっと難しくて話し合いの時間がしんどいのだろうと思っていた。しかし、そんなことはなかった。

一日目、発題者の方が話した内容は面白く、確かにそうだよな、と納得させられるものもあれば、私の考え方とは全く別の考え方をしていて、別の視点を与えてくれるものもあった。私は、この話を聞くことは新たな考え方が私の手に入るのだから、「学び」ととらえても良いのではないか、と思った。そう考えていくと、発題されている時間は楽しかったのだから、「学ぶ」ことは楽しいのだ、と「学ぶ」ことの楽しさを思い出すことができた。

「学び」とは何か?何のために「学ぶ」のか?というテーマから始まり、どう「学べ」ばいいのか?教育と洗脳の違いとは?などといった幅広い内容を深く考えることができた。先輩方の意見は深く考えられていて、衝撃を受けた。そして、自分の考え方を改めるきっかけとなった。人から言われてやる「学び」は楽しくなかったとしても、そこから興味のあることを自分から「学ぶ」のは楽しいのだから、楽しくない「学び」は楽しく「学ぶ」ための準備段階なのではないかなと思えた。

また、無知であることは楽だけれど、自分が無知なことを知った瞬間に脱したくなるものだと思う。赤ちゃんや小さい子供は何でも知ろうとする。これは本能的に無知であることを辞めようとしているのだと思う。そして私は、無知になりかけていたのかも知れない。考えること、「学ぶ」ことを辞めることは楽で簡単かも知れないけれど、その分、幸せと引き替えだ。知ろうとすること、それが「学ぶ」ことへの一歩だと感じた。

「学ぶ」ことに目的はなくても、「学んだ」先にある何かを求めることはあると思う。私には「学び」の先にあるものを求めることが「学ぶ」目的に思える。自分のために学び続けること、それは一番難しいことかも知れない。なぜなら、目標が定まっていない中、興味・関心の薄いものをただガムシャラに「学び」続けていくと、やる気がプツリと切れたときに、何故私は「学び」続けているのか、何をしたいのかといった、根本的な疑問、悩みを抱いてしまうからだ。そして、それを解決するために興味・関心のあるものを見つける。私はその行程が難しいのかなと思った。けれど難しかったとしても、その難しさの中には喜びがあると私は信じていよう、そう思えた三日間だった。

 

515日礼拝 「何のために学ぶのか」 (高校三年生)>

「神の前の一人の人間として、話すことのできない人の声を聞き寄り添う人になってほしい。」

この講師の先生の言葉で、私の学びに対する考えは大きく変わったと思う。何のために学ぶのか。ネットには「五分で分かる」といった文言付きの解説動画で溢れた時代に、そして大学受験を見据えいかに効率的に勉強するかが求められる私にとって、この問いは痛い所を突いてくるように思えた。しかし修養会を終えた今、この問いへの私の答えは、声にできない人の立場に立って寄り添える人になるため、である。

私は、自分の意思で勉強すること、自分の意思で進路を決めること、誰かと話して学びを得ること、そして自分の考えを他人に言葉で主張することが許されている。この自分の意思で動くことは主体性であり、「主体的であること」は常日頃求められているように感じる。そして主体性を良い事だと盲目的に信じていた。だが、かつて科学という学問を戦争の兵器に利用したように、学び・学問における主体性は間違った方向に行きやすい事を知った。個人的な好奇心による学問も受験のための効率重視の勉強も、単なる表面的な知識の詰め込みも一概に悪い事ではないと今も思う。ただ、その学びによって得られた何かをいつの間にか間違った方向に使うことが無いように文系や理系というような線引きをしない、また机上に留まらない「学び」が必要だと考えた。自分が「主体的であること」が許されているからこそ、与えられたものを正しく使おうという意思を持って学ぶことそのものに大きな意味があると感じた。

ディスカッションで「他人を傷つける事が無いように学ぶ」という意見がいくつかあった。大いに納得すると同時に、学びの目的は「他人を傷つけない」と制限する装置のようなものに留めるのはもったいないと思う。それは私自身が、自分と異なる他者と目線を合わせて行動する原動力としての学びを大切にすべきだと思うからである。私は、今の既存の社会に順応してなじんで行くために学んでいるのではない。女子学院を出て、きっと感じるであろう社会に対する違和感、自分の無力さを痛感せざるを得ない、社会の現状に向き合い、「声にできない人」に寄り添う強さをいつか持てるように、私は日々学ぶべきなのだと思わずにはいられなかった。

マタイによる福音書913

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」

講演で紹介されたこの聖句と修養会で得られた全てを心にとめておきたいと思う。

一覧に戻る