日本最初の「看護婦」大関ちか

連続テレビ小説(NHK)『虎に翼』が放送されています。主人公のモデルである三淵嘉子は、日本で初めての女性弁護士の一人であり、後に女性初の裁判所長も務めます。

 弁護士や裁判官と同様、看護師も国家資格を必要とする専門職の一つです。現代では、病院に行けば看護師がいるのが当たり前であり、コロナ禍でひろまったエッセンシャルワーカーという表現のとおり、その職務の尊さ・重要性が認識されています。しかし、かつては家族以外から看病を受けるのは裕福な人だけができるぜいたくとされており、看護の仕事は命を売って金儲けをする業」と見なされていました。士族の娘として生まれ育ちながら、この「賤業」に生涯をささげ、日本における「看護婦」の草分け的存在となった大関ちかについて、紹介します。

 1886年、女子学院の前身の一つである桜井女学校の中に、看護婦養成所が設置されました。当時の日本にはきちんとした医療教育を受けた看護婦がおらず、来日した宣教師やキリスト教関係者を中心に、養成機関の設置が計画されていました。学校設立のために奔走していた友人(リディア・バラ、宣教師バラの妻が亡くなり、その遺志を継いだのが、桜井女学校を実質的に経営・管理していたマリア・ツルーでした。

 写真は看護婦養成所第一期生の6名です。いちばん右にいる大関ちかは、下総国黒羽藩の国家老であった大関弾右衛門の娘です。二児をもうけた後離婚し、自活の途を求めて上京しました。植村正久によって信仰に導かれたちかは、植村からマリアの看護婦養成所で学ぶことを薦められます。前述したとおり、当時の看護婦は社会的地位の低い職業であり、家老職を勤めた家の出身であるという誇りを持っていたちかは「いくら落ちぶれたとて看護婦とは情けない」(『婦人新報』178号、1912年4月)と拒否します。植村は、病人を看護して神の慈愛を示すことはこれ以上ない伝道であると語りナイチンゲールを例に挙げて、決して賤しい仕事ではないと説きました。神が示した道を行こう、と決意したちかは、28歳で看護婦養成所の門を叩きます。

 養成所は、教える側も教えられる側も手探りの状態で始まりました。時として教壇に立つ者が知識不足により説明に窮し、英語や世界情勢の心得のある生徒が助け船を出しながら、必要な知識・技術を習得していきました。また、生活面においても教師と生徒は協力していました。寄宿舎でともに生活し、講義の合間に掃除・洗濯・食事の準備を分担しました。

1888年、日本で初めて訓練を受けた看護婦の一人となった大関ちかは、帝国大学医科大学第一医院(現在の東大病院)初代外科看病婦取締役(外科の看護婦長)に就任します。ちかは医師と渡り合える程の高い知識を身につけているだけでなく、真心と職業的使命をもって患者に接することをこころがけ、部下たちの模範となりました。また、看護婦の地位向上と労働環境の改善を目指して働きかけました。

2年勤務した後に女子学院に戻り、現在の新潟にあった姉妹校の高田女学校に赴任、1年ほど教育と伝道に従事しました。同地に新築された知命堂病院に看護婦長として招聘されると、看護婦を目指す生徒の実地教授を務めました高田で5年ほど過ごした頃、マリア・ツルーが重病を患ったのを機に上京、以降は活動の場を東京に移します。東京看護婦会が設立した養成所の指導教師に就任、1909年には大関看護婦会を設立する等、看護婦のパイオニアとして生涯を費やしました。

 大関ちかの人生の後半期には2つの大きな出来事がありました。1918年にスペイン風邪が世界的な規模で蔓延し、1923年には関東大震災が起きました未曾有の疾病・天災の中、看護婦は引く手あまたとなり、看護婦不足が社会的問題になりました

ちかが切り開いた看護という専門職に就く者たちが、人々を癒やし、命を救う姿は、当時も今も変わらず続いています。

今回の記事では、大関ちかの職業を表す呼び方として、当時から近年まで長らく使われていた「看護婦」をあえて使用しました。当時の呼称に従って「看病婦」とした箇所もあります。2002年3月から、「保健師助産師看護師法」(2001年改正)によって、正式な呼称は「看護師」に統一されています。

参考文献:

亀山美知子『女たちの約束 M.T.ツルーと日本最初の看護婦学校』人文書院、1990年

亀山美知子『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版、1992年

田中ひかる『明治のナイチンゲール大関和物語』中央公論新社、2023年

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