高3修養会報告礼拝

7月16日(火)~18日(木)に高3修養会が行われました。9月11日(水)の高3の生徒の報告礼拝を紹介します。

 

今回の修養会のテーマが「賜物」であると発表されたとき、「賜物」という言葉に私があてはめたのは、才能や周囲の環境、自身の個性といったものだった。そのように考えたのは私だけではなかったようで、実際に、一日目の講演後のディスカッションで、同じグループの人の賜物を互いに言い合ってみたときにも、頭がいい、仕事ができる、優しい、かわいい…などという類の言葉が飛び交っていたように思う。一方で、二日目の講演後に行われたディスカッションの最初に、「自分にとっての賜物は何であると思うか」という議題を出した時には、一日目とは打って変わって、私たちのグループでは自分の賜物を断言できる人はおらず、話が停滞してしまった。

そのきっかけは、聖書における賜物の説明を聞いたことだ。二日目の講演の冒頭で、講師の三河先生は、今朝の礼拝でも読まれた、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」という一節を引用された。この箇所は、賜物とは私たちが所有しているものではなく、神様から授けられ管理を任された一方的な恵みであり、自分のものではないからこそ大切にすべき、他者のためにそれを用いるべきであるということを示している。さらに三河先生は、人と比べて少し変わっていると感じていた自分の声をコンプレックスだと思っていたが、伝道師の仕事をしていたときに、その特徴的な声だからこそ話が聞き取りやすくて助かっていると人にいわれたことで、初めてその声が自分の賜物だと気が付くことができたという経験もお話ししてくださった。

私は、自分にとって全く新しい賜物の考え方に、納得すると同時にどこか戸惑いを覚えた。私が今まで自分にとっての賜物だと思っていた才能や個性といったものは、人のために役に立つかと言われると曖昧で、ではこの定義における自分の賜物とは何であるのか、と考えたとき答えが見つからなかったからだ。直後のディスカッションで、司会者として最初にこの議題を出したのも、思えば他の人の意見を聞いてみたかったのかもしれない。しかし少なくとも私のグループでは、大体みんな同じところで引っかかっていたようで、明確な回答を得られなかった。結局この議論は流れてしまったし、修養会からの一月半の間で自分なりに考えてはみたが、これだといえるものは見つからなかった。そのため、ここで視点を変えて、私は自分の賜物を見つけるのに必要なこと、そしてそれが見つかった時、賜物を活かして生きるのに大切なことという二点について考えてみることにした。

まず前者について考えたとき、私は自分が賜物だと思っていたもの、才能や個性といったものが、他者との比較の上に成り立っていることに気が付いた。賜物を辞書で引いたとき、「与えられたもの」としか記載がないのにもかかわらず、とくに勉学やスポーツにおける才能といった面で、他者と比較したとき、より優れているものこそが賜物であると思い込んでいたのだ。これにはおそらく、自分がより優れているものに対し多くの評価を得てきた経験が起因しているように思う。しかし先ほども言ったように、「賜物」は神様から与えられた恵みであり、他者と自分との間に成り立つものではない。つまり、他者との比較の上で成り立つ競争主義的な価値観の上では、自分の本来の賜物を見出すことはできず、自分のありのままの姿をとらえることができて初めて、賜物を見つけることができるのではないだろうか。

三河先生の声の話を単なる結果論であるといった人がいた。それは、声がたまたま人の役に立ったから、賜物になりえたのだという主張で、私も最初は同じように考えていた。しかし、三河先生の声が賜物となりえたのは、他者の声と比較して、自分の声が変わっているとレッテルを貼っていたのに対し、人の役に立ってみて初めて、自分の声の価値というものを他人と比べることなく認めることができたから、そのようにも考えられはしないだろうか。ここで女子学院での六年間の生活を振りかえってみると、他者と比較しあうという機会があまりなかったと感じた。それぞれの違いを認め、尊重しあうことのできる友人たちとの出会いや、成績や順位が発表されないなどの、他人と比べることの少ない環境で過ごしたことは、小学校のころから確かに持っていたはずの他者基準の尺度をいくらか緩和していたのだと初めて気が付いた。一人一人違って、でもそれでいい、そんな考えが生まれ、自分の中に定着していったことは、本来の自分を素直に見つめ、賜物を見つける一助となるのではないだろうか。

それでは、賜物を見つけたとき、それを生かすために必要なことは何だろうか。この問いに対し、私は二日目の講演で聞いた、山登りと水筒のたとえからヒントを得た。この例えは、仮に、自分と連れの二人で登山をしていて、ある時道中で同行者の水がなくなってしまったという状況を考える。山中であるため、水はそう簡単に得られるわけではない。もしその時、自分が十分な水を持っていればすぐに分け与えようと思えるが、十分に持っていなければ躊躇してしまうだろう。しかし実際には、神様は私たちに水をずっと与え続けて下さっているので、私たちはその恵みを人に分け与えることをいとわない、といった内容であった。この水を賜物に置き換えて考えてみると、この例えが示しているのは、私たちが賜物を人のために用いようと思ったとき、その恵みが神様から十分に与えられること、また自身の行いが、たとえどんな結果になろうとも、神様から必ず認められることを信じる必要がある、すなわち神様から私たちへの愛があるということに対し信頼を置く必要がある、ということだ。神様から私たちへの愛と言ってしまうと、とても大それたことのように感じてしまうが、神様を身の回りの家族、友人、先輩や後輩、先生…そういった人たちに置き換えて考えてみると、しっくりくると思う。私は、元々昔からひどいあがり症で、自己紹介や授業内のスピーチといった小さなものだったとしても、緊張してうまく話せず歯がゆい思いをすることも多かった。しかしここ最近になって、私は自分のその性格がいくらか改善されてきたと思っている。そしてそれは、たとえ私がうまく話せなくても、大丈夫だよ、よかったよと声をかけてくれた友人たちの影響が大きい。彼女たちにとっては何気ない一言だったとしても、確かにその一つ一つは私にとっては大きな救いで、私がその人たちに認められていると実感し、また私を認めてくれるのだと信頼することのできるきっかけになっていたのだと思う。人から認めてもらえる場があるのだと知っている、すなわち周囲からの愛とそれに対する信頼は、私たちが一歩踏み出す時背中を押してくれるのではないだろうか。賜物とは、このように周りの人々との間に愛と信頼があって、初めてその真価を発揮し、人のために活かすことができるものなのだ。自分にとっての賜物が何であるかも、それをどのように用いるのかも人によって異なるだろう。しかし、女子学院での日々の中で築いてきた、自分を見つめ賜物を活かすための力は、私たちの進む道を照らしてくれるだろうと私は思う。

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