1月23日〜28日は「女子学院に学んで」というテーマで高3の生徒が礼拝を担当しました。1月28 日の礼拝を紹介します。
突然ですが、皆さんは自分の何に価値を見出しているでしょうか。容姿でしょうか。性格でしょうか。学力でしょうか。それぞれ様々なことに自分の価値を感じていると思います。あるいは、自分に価値を見出すことができず劣等感を感じている人もいるかもしれません。女子学院では、たとえ私たちが自分に価値を見出せなくても、存在自体がかけがえのないものであり、1人1人が神様に愛されているのだと教えられてきました。今日の聖書箇所の「あなたは価高く、貴い」という言葉にも、そのことがよく表されています。しかし、それを実感することはたやすいことではありません。SNSなどを見ると、顔も名前もわからない誰かが「こういう人が価値のある人だ」という基準を様々に発信しています。例えば、容姿端麗な人、スタイルがいい人、高学歴の人などです。このような価値基準、他者との比較材料が溢れかえっている今、自分はただいるだけでいいのだ、と素直に受け入れられる人はそう多くないのではないでしょうか。
私が女子学院に入学したばかりの頃、個性豊かで素敵な同輩に囲まれて、しばしば劣等感を抱くことがありました。それまで中学受験という競争の場にいて、他者と比較することが習慣になっていたためか、自分の容姿やテストの点数を同輩と比較しては1人で勝手に落ち込んでしまうことがありました。「あの子は勉強も運動もできてスタイルもいいのに、自分は取り柄がないのではないか」「個性的な性格でギャグも上手な人とは違って、自分は女子学院生らしくないのではないか」と考え、気持ちが沈むこともありました。当時の私は、目に見えてわかる容姿やテストの点数などの価値基準を他人との比較に用いることで、自ら心を不安定にさせていたのだと思います。程度は人それぞれだと思いますが、誰しも他者と比べてマイナスな感情を抱いてしまった経験があるのではないでしょうか。 私はここで、他者との比較を否定したいわけではありません。先述したように、現代では他者との比較材料が多く存在していますし、そうでなくても、他者と関わりながら生きている限り、他者と比較しないことの方が難しいと思います。ですから、容姿やテストの点数など、他者との比較によって成立する価値、「可愛いね」や「点数が高くて凄いね」など他者からの評価を否定するつもりもありません。しかしながら、今日の礼拝で私が伝えたいことは、他者との比較、そして他者から評価されることがなくても、「自分は価高い人間だ」と思えるような価値の方が、何倍も大切だということです。他者のものさしに自分を当てはめることなく、自分で自分に見出した価値に自身の軸を置くことができれば、それは自分の指針となってくれるはずです。
では、どうすれば他者と比較することなく、また他者からの評価を必要とせずに自分に価値を見出せるのでしょうか。 私の場合、私が自分自身で自分に価値を見出すことができるように成長できたのは、女子学院で恵まれた環境を与えられたからだと思います。まず、みなさんご存知の通り、女子学院では定期テストの平均点や順位が開示されません。つまり、女子学院としては、定期テストを他者との競争の場として設けていないということです。女子学院入学前まで、テストと言えば他者との学力の優劣を測るものという認識だったので、いくら平均点や順位が開示されないとはいえ同輩のテスト結果を気にしていました。しかし、テストの回数を重ねるごとに、テストの点数で同輩に勝つために勉強するのではなく、自分で目標を定めて勉強することが大切なのだと気がつきました。このように、他者と比較することなく、自分自身で目標を定めて自分のために勉強することが重要だと気付かせてくれる環境は、世の中にそう多くは存在していません。高校2年生の時、塾で講師の方に、「ここは学力で判断される場所です。テストで良い点数を取るために頑張って勉強した人が優遇され、そうでない人が優遇されないのは当たり前です。」と言われたことがあります。その時、塾に加えて学校でもテストの点数で自分の価値を判断されていたら、どんなに窮屈な思いをしただろうかと思ったことを覚えています。
私は一ヶ月半後に、中学生の皆さんは数年後に女子学院を卒業するわけですが、女子学院を卒業してもっと広い世の中に出れば、私も皆さんも数多くの競争社会にのみ込まれることになるでしょう。例えば、受験や就職などです。そこでは、否が応でも自分と他者の能力を比較されることになってしまいます。そんな時、自分が何をしたいのか、自分の目標は何なのか、といったような自分がやりたいことを見失わないようになれる機会が、女子学院にはたくさん用意されていると感じます。このように自分のやりたいことを追求することが許されるというのも、女子学院の「自由」なのだと思います。 自分のやりたいことを見失わないようになれる機会というのには、先述してきた通り定期テストも含まれますが、私が特に恵まれた機会だと感じたのは高3修養会です。高3修養会では中2御殿場教室のように、テーマについての講演を講師の方より伺い、グループに分かれてディスカッションなどを行います。自分で自分に価値を見出すためには、他者との比較よりも自分自身と向き合うことが大切だ、と気づくことが必要であると私は考えますが、修養会はまさに自分を見つめ直し、自分自身と向き合うことができる機会だったと思います。私たち19学年は「賜物」というテーマで修養会を行いましたが、ディスカッションをして行く中で、同輩たちの多種多様な価値観や宗教観、人生観に触れました。特に印象的だったのは、私が、「何でもかんでも神の力がはたらいたと考えると、私の努力が否定されているような気がする」と発言したところ、ある同輩が「私はJGに入れたのも自分の努力のおかげではなく、偶然とか環境のおかげだと思うから、否定されたと感じない。」と意見してくれたことです。部活やクラスが違えど、六年間同じようにキリスト教に触れたり学年活動に関わってきたはずなのに、こうも考え方が違うのか、と驚きました。それと同時に、環境のおかげ、と素直に言い切ることができる彼女に劣等感ではなくリスペクトを感じました。そして、彼女の発言をきっかけに自分の傲慢さに向き合うことになりました。他者と比較して劣等感を覚えるなどの側面があり、どちらかといえば謙虚な方だと思っていた自分が、実は傲慢さも持ち合わせていたのだと気づいたのです。そして、自分自身と向き合い、自分を理解して自分がどのような人間でありたいかを追求することが大切だという考えに至りました。結果として、他者との比較や他者の評価を必要とせず、自分のやりたいことや理想像を追求したいと思えていることが、私の価値ではないかと思っています。存在自体に価値があるとまではまだ思えないけれど、自分の指針とできるような自身の価値を見出せたことを純粋に誇りに思っています。
最後になりますが、私が最近読んだ岡崎琢磨さんの小説、『鏡の国』の一節を引用したいと思います。「いつかは失われるもの、いつかは失われるとわかっているものに、決して自分の1番の価値を置いてはいけないのです」。この小説はルッキズムがテーマとなっており、身体醜形障害を持つ主人公の女性に向けて、主治医の精神科医が言った台詞です。皆さんが今、どのような価値を自分に見出しているかは様々でしょう。ただ、この台詞にもあるように、皆さんが自分の1番の価値を見出すものが揺らぎやすいものでないことを願います。他者を介在させることで成立する価値は、目に見えてわかりやすいものかもしれませんが、他者を関わらせるが故に移ろいやすいものでもあると思います。私にとっての価値がそうだったように、自分で見出す自分の価値とは他人の目には見えないものかもしれません。しかし、女子学院では、修養会の他にも、講演会や平和学習など自分自身と向き合い、自分を見つめ直す機会が多く与えられています。皆さんの青春時代が豊かなものになるように、皆さんがここ女子学院で、他者との比較や他者からの評価によらず、自分自身で自分の価値と言えるものを得られることを願っています。