標語聖句2010年度

女子学院の標語聖句は、その聖句の意味を生徒が1年の課題として考えるように、年度初めに院長が選んでいるものです。

2010年度の標語平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書 5章9節)

「この聖句の前半はもともと「何と幸いなことか、平和をつくり出す人々は!」という強い表現です。さらに「平和を願う人々」でも「平和のために祈る人々」でもなく、「平和を実現する(つくり出す)人々」となっているところに注目したいと思います。英語の聖書では”Blessed are the peacemakers,”や”Happy are those who work for peace,”が使われています。文字通り平和の実現のために行動する人々というニュアンスが感じられます。

ところでここで言われている平和とはどういうものでしょうか。それは単に争いのない状態を意味するだけでなく、すべての争いの原因ともなる貧困、不公平、人権の抑圧等がない状態をも意味しています。別の言い方をすれば、人々の間に究極の信頼関係が成り立っている状態だと言うことも出来ます。しかしそんなことが私たちの世界で本当に実現出来るのでしょうか。残念ながらそれは限りなく不可能に近い理想でしかないように感じられます。

そこでこの言葉を語られたのが、私たち人間が神との平和を回復するために十字架の死をとげて下さったイエスさまだったということを思い出す必要があります。争いがなく、平和に過ごすことはどこの社会でも大切にされていることだと思いますし、皆が願っていることです。しかしイエスさまは自分の仲間や同胞、あるいは自分を大事にしてくれる人や愛してくれる人を愛するだけではなく、一歩踏み込んで自分を憎む者、あるいは敵対する者をも愛するようにと教えられました。そしてそれは単なる口先だけの理想論ではなく、身をもってその教えを生きることによって、十字架の死をも自らに引き受けられた方でした。ここに平和の原点があります。エフェソの信徒への手紙でパウロはこう書いています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

つまり「平和を実現すること」は本来私たち人間には出来ないこと、神の子なるイエス・キリストにしか出来ないことなのです。けれども私たちは、十字架のあがないによって回復された神との平和を前提として、愛とゆるしによって他者を受入れる生活へとイエスさまによっていつも招かれています。その招きに応えることによって、みずから「平和を実現する人」へと変えられていく希望が与えられています。平和は自らを神に委ね、他者を信頼するところから始まるのです。

院長 田中 弘志

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