標語聖句2011年度

女子学院の標語聖句は、その聖句の意味を生徒が1年の課題として考えるように、年度初めに院長が選んでいるものです。

2011年度の標語「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書 8章32節)

「自由」という言葉の受けとめ方はおそらく人によってさまざまだろうと思います。「自由」と聞けば多くの人はまず何をするにしても制約のない状態をイメージするのではないでしょうか。あれをしてはいけない、これをしてはいけないなどという、制限や規制を受けない自由です。当然それは自分が何かをする時に、自分で考えて判断する部分がそれだけ多くなることを意味しますし、その判断に対する責任は自分が負うことになります。一方何かをしてもしなくてもいい時に、積極的に何かを「する」ことを選ぶ自由というものもあります。そのことにそれだけの意味を見出せる場合です。「自由」は人間が自分というものを最大限に開花させるためにも、また社会が成熟する上でも大切なものです。しかし私たちは同時に与えられた自由を自ら制限することの大切さも知っています。人間関係を円滑にするために、あるいは集団生活の約束ごととして、時には自分の自由を抑えて行動することも必要です。自分の自由を主張することが他人を不自由にすることがあってはならないからです。

これらの自由はどちらかといえば人と人との関係、すなわち人間の横のつながりの中で意識されている自由です。これに対して聖書が言う自由は基本的には神と人間との関係、すなわち縦の関係の中で意識されているものです。聖書が「真理はあなたたちを自由にする」と言う時の真理とは一体何でしょうか。これはイエスさまが自分を信じたユダヤ人たちに言われた言葉の一部です。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われたのです。イエスの教えに従うことによって知る真理とは究極の真理、人間存在の根幹にかかわる真理であり、それはつまり神そのものです。するとこのイエスの言葉は「神を知った者は自由にされる」と理解することが出来ます。

それでは当時のユダヤ人たちはなぜ自由ではなかったのでしょうか。すぐに思い浮かぶのは、律法を忠実に守ることによって神に認められようと一生懸命だった彼らの姿です。律法にとらわれていたのです。これに対してイエスが強調されたのは、人が神に受け入れられるのは人間の努力によるのではなく、神の一方的な愛によるのだということでした。神に愛され、受け入れられていることを知った人は、それに応える形で進んで喜びをもって他者に仕えることが出来るのです。また神を畏れることを知っている人は、それ以外のものを恐れる必要がありません。そういう人は世間の評価や他人の顔色を伺いながら行動することから自由にされているのです。

院長 田中 弘志

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